夏の思い出

※この小説は半分事実、半分虚構のファクションになっています。



 これは、僕が小学五年生の夏休みに幼なじみと体験した、とても些細な出来事に関する記録である。


***


 電車を二回乗り継ぎ、荷物を搭載したレンタカーに乗った。目的地のキャンプ場までは十五分ほどかかると、ハンドルを握る父が言った。車が曲がるたびに、テント用のペグと折りたたみ式のテーブルがぶつかり、鈍い金属音が聞こえた。
 林立する樹木が後ろに流れていくのを、僕は気もそぞろに眺めていた。刺になった太陽の光が、肌に無数の穴を空け、汗が吹き出した。
「今日は一日中晴れているから、たくさん星が見られるよ」
 星座早見表を眺めつつ、麻衣が嬉々として声をかけてきた。
「星って、夏の大三角形とか?」
「そうそう、織姫や彦星がいるやつね」急に忙しげな口調になって、「あと、アンドロメダ銀河とかも綺麗に見えるみたい。ウチらの住んでる場所だと星なんて全然出ていないけど、キャンプ場だとハッキリと見えるんだろうな」
 麻衣は車の天井を見上げた。頭の中にある真っ黒なスクリーンのあちこちを明滅させ、夜空に瞬く星々を思い浮かべているのだと推量した。
「麻衣、ちょっと静かにしてくれ」
 間延びした言い方。いつの間に目を覚ましたのだろう、僕の横で寝息を立てていた翔太が、呻くように言った。
「お、寝不足野郎が起きてきたぞ」
「あんた、電車の中でも寝てたじゃない。今日ずっと眠ってるつもりなの?」
 からかいのニュアンスが感じられる口ぶり。翔太が気だるげに身体を起こして、
「仕方ないじゃん、昨日全然眠れなかったんだから」
 熟睡できなかったのは僕だけはなかったらしい。待ち合わせ場所である駅前広場で、翔太は何度も目を擦っていたし、麻衣は電車で揺られながら、時々欠伸を堪えていた。
「キャンプ場に着いたら何をするんですか?」
 助手席に座る翔太の父に訊くと、後部座席を指差しながら、
「まず、テントやタープを建てる。設営は俺らでやっておくから」
「じゃあ、俺らは遊んでいて良いの?」
 アホか、と翔太の父は嘆息した。
「お前らにもちゃんと仕事があるぞ。大事な水の確保だ」


***


 目の奥が痺れるほどの緑だった。灌木が生い茂るキャンプ場は、太陽光を反射して輝いていた。沸々と湧いてくる汗をシャツの袖で拭いながら、僕はレストランで初めて飲んだメロンソーダの緑を思い出し、大きく喉を鳴らした。
「もっとテントの側に水場があれば良かったのにな」
 ポリタンクを振り回しながら、翔太がぼやいた。
「仕方ないよ、水場の周りは他のテントで埋まっていたし……」
「でも、日が沈んだらこの道、真っ暗だろ? 夜中に腹壊したらどうするんだよ」
 トイレは水道を引いてある水場にしかなく、催した場合はそこまで歩を運ぶ必要があった。
「その辺ですれば良いんじゃないの」麻衣がサンダルを鳴らしながら、事も無げに言った。「ウチらのテント場の近くに、いっぱい木が生えている場所があったじゃない、あそこはどう?」
「テントまで臭ってきたら、シャレにならないな」
 キャンプ場から水場までの道程は、道幅の広い一本道だった。両脇には側溝があり、枯れ葉や枝が敷き詰められていて、帯のように伸びていた。
 二人と談笑しながら、側溝を何気なく見ていた。すると、視線が何か気がかりなものを捉えたような気がして、はたと止まった。日の光を反射して、何かが光ったような気がしたのだ。何度か瞬きを繰り返し、側溝に歩み寄った。屈んでみると、土で汚れてはいたが、数枚のポラロイド写真が落ちていた。写真の白い部分が光を受けていたのだろう。
「なにそれ、写真?」
 麻衣の声が背中から被さってきた。
「なんか、捨てられてたっぽいよ」
「誰かが落としたのかもしれないぞ」こめかみに浮かんだ汗を拭いながら、翔太が言った。「何が写ってるんだ?」
 写真は五枚あり、裏側を上にして落ちていた。裏返してみると、正座をしたマネキンが写っていた。直感でマネキンだと判断したのは、玉口枷と目隠しによって表情が消されていたためで、目を凝らすとそれは裸の女だった。見てはいけないものを見たような気がして、僕は写真を取り落としそうになった。
「うわ、気持ち悪い」
 苦虫を噛み潰したような麻衣の表情。不快感がさっと顔に走り、石膏のように固まって仮面になる。
「他の写真も、そういうのばかりなのか」右手でポリタンクを固く握りしめたまま、翔太が上擦った声で、「すごいな、こんなの初めてみたよ……」
 ポラロイド写真には、様々なポーズを取る女が写っていた。脚部を折り畳み、肉感的な太腿の張りを見せつける女……上体を弓なりに反らせながら身体を捻り、腰周りの肉が蛇腹になっている女……膝を曲げ、両足を大きく開き、内股を強調している女……光量が足りないのだろう、背景は暗くて不明瞭だが、むしろそのために女の艶美さが際立っていた。
 唾を飲み込む音が聞こえた。僕だけではなく、翔太も、生理的嫌悪感を露わにした麻衣でさえ、全身の神経の一本一本を、写真をめがけてジリジリと伸ばしているのが分かった。写真の女が、僕たちの視線を鷲掴みにし、手繰り寄せているみたいだ。喉の奥が乾いてひりつき、耳元まで心臓がせり上がる。高熱に浮かされながら見る夢のような非現実感が充満し、呼吸が速くなっていった。
 突然、心臓に氷水を注がれたような衝撃。麻衣がポリタンクを落としたのだ。途端に背景として戻ってくる、合唱する蝉の鳴き声や、頭の芯を焼くような太陽光。
 麻衣がポリタンクを拾い、僕と翔太は慌ただしく立ち上がった。女に向けて伸びていた神経は、もやしのひげ根のように萎びてしまい、僕は靴底で虫を潰したような気持ちに苛まれた。
「捨てちゃおうよ、こんな写真」
 麻衣の言葉に従い、僕は元の場所に写真を置いた。未練がましい翔太の視線を遮るように、落ちていた葉で写真を覆い隠すと、言いようのない安堵感が込み上げてきた。
「よし、行くか」
 急き立てるように翔太が言った。曖昧に頷きながら、僕らは水場に向けて歩きだした。


***


 ポリタンクに水を注いでいる間、僕らの口数は少なかった。女の残滓が脳裏にこびりつき、目詰りを起こしていたのだろう。水を蓄えたタンクは重く、皮膚の裏にまで汗が滲み出てくる。
「変なもの、見ちゃったな」沈黙を破ったのは翔太だった。「あんな写真を撮るなんて、きっと変態の仕業だぜ」
 そうね、と麻衣が相槌をうち、「理由は分からないけど、世の中にはああいうことが好きな大人もいるんだよ」
 急に僕は、自分自身が水槽に入れられた魚になったような気がした。外敵のいない、悠々自適なガラスの中の生活。決まった時間に餌が現れ、水温も一定に保たれている。しかし、その薄いガラスの層の向こう側には、途方も無いほど広大な世界が鎮座しているのだ。急に息苦しさを覚え、僕は粘つく唾を飲み込んだ。
 側溝の一部で、不自然に盛り上がった樹葉。どうやら写真を埋葬したところまで戻ってきたようだ。太陽は真上の位置まで昇り、縮こまった僕らの影が、足にまとわりつく小型犬に見える。
「このことは秘密にしよう」
 何度か繰り返される、目配せのキャッチャボール。麻衣と顎を引いて頷き、翔太がそうだなと返事をして、
「キャンプ場に着いてすぐなのに、なんか疲れちゃったな」
「ほんとだよ」落ち着き払った表情で、麻衣が答える。「早く水を運んで、お昼ごはんにしよう。お腹空いたよ」
「そうだな、急いで戻ろう、俺も喉が乾いたよ……。ったく、翔太があれに夢中になっていたせいだぞ」
 お前だって同じだろ、と翔太が小突いた。白い歯を見せて麻衣が笑い、それが僕や翔太にも伝染して、瘧がついたように笑った。小高い山から風が吹き、繁茂する葉を震わし、潮騒に似たざわめきが頭上から降ってきた。熱を孕んだ風は僕らの笑い声を乗せて、流れ星のように尾を引き、やがて何処かに消えていった。僕たちの前には、炎のように揺らめく空と緑が、ぽっかりと口を広げているばかりだった。<了>