夜の短編喫茶その2

『赤い絲』(テーマ:糸)


 学校帰りに何気なく普段とは違う道を歩いていたら、見慣れないコンビニを見かけた。こんなところにコンビニがあるなんて知らなかった。渡河麗(とかれ)はユニークな店名と、欧風でファンシーな外観にひかれて、そのコンビニに入ってみることにした。
 入店すると、コンビニの外装と同じ色合いの制服を着た店員があいさつをして、渡河麗は増々気分が高まった。しかし、陳列されている商品は普通のコンビニで並べられているものばかりだった。高揚していた気分が急速に温度を下げていくのが分かった。ひと通り店内を見まわり、気落ちして出口に向かおうとしたとき、ふと自動ドアの近くの棚に「赤い糸あります!」と書かれたポップが飾られているのに気づいた。興味をひかれて目をやると、長方形のプラスチックケースに入った赤い糸が棚に整然と置かれていた。渡河麗は店員のほうを振り返りながら、すいません、と声をかけた。
「はい、なんでしょう」
「あの、この『赤い糸』って、漫画や映画にあるような、あの『赤い糸』ですか?」
「ええ、そうですよ」駅までの道のりを教えるように、店員は平然と答えた。
「運命のパートナーとかが分かる、あの?」
「はい、その赤い糸です」
 渡河麗の脳裏に、憧れの卓也先輩の顔が浮かんだ。同じテニス部活の一学年上の先輩で、インターハイの個人トーナメントでベスト4に入るほどの腕の持ち主であり、部内での信頼も厚い。渡河麗が尊敬し、そして密かに思いを寄せる相手だった。
 店員の顔を半信半疑で眺めながらも、何も買わずに店を出るのは気が引けたし、この赤い糸とやらの正体が気になったので、まあ物は試しだ、という顔をしながら、渡河麗は赤い糸を購入して帰路についた。
 

 二階にある自分の部屋に入ると、さっそく例の赤い糸をケースから取り出した。箱の中には薄い説明書が入っていた。糸の先端を左手の薬指に巻きつけておけば、人生の伴侶となる異性が誰なのか、赤い糸が導いてくれる、とだけ書いてあった。
 訝しく思いながらも、糸を指に何周か巻き付け、外れないようにしっかりと止めた。すると、もう一方の糸の端が突然ふわりと浮き上がり、ツバメのように部屋のドアへと伸びて、床とドアのわずかな隙間をくぐってしまった。
 慌てて部屋を出ると、糸は階段を一直線に下り、どうやら玄関へと向かっているようだった。どうやらこれは本当に赤い糸らしい、と渡河麗は指から伸びる糸をまじまじと見ながら確信した。ならば、この糸を辿った先には、一生のパートナーがいるはずだ。居ても立ってもいられず、靴を履くことさえもどかしそうに、渡河麗は家を飛び出した。


 糸を辿りながら、渡河麗は赤い糸についていくつか発見をした。一つは、どうやら糸は本人以外の人間には見えていないこと。糸は人通りの多い商店街や、三車線の道路などを一直線に横切っているが、驚く人はおろか、視線を向ける人すらいない。そしてもう一つは——これは最初、渡河麗には信じられないことだったのだが——、糸が様々な物理法則を無視していること。どうやら糸は自分の現在地と相手の位置を最短で繋いでいるらしく、壁や塀、通行人や犬などをすり抜けて伸びている。渡河麗は不思議に思いながら、糸の先を辿っていった。


 10分ほど走って、渡河麗は国立公園の入り口にたどり着いた。家を出てからずっと全速力で走ってきて、すっかり息があがっていた。糸は園内を突っ切るように、真っ直ぐ伸びていた。
 渡河麗はふと、冷静にこの糸の先にある風景について考えてみた。ここまで走ってきたものの、運命のパートナーが町内にいるとは限らないじゃないか。隣接する県まで伸びているかもしれないし、太平洋を横断しているかもしれない。それに、当然ながら、赤い糸が卓也先輩を指していない可能性だって、十分にある。
 額や背中に汗を流しながら、渡河麗はひどく絶望的な気分に陥ってた。砂が詰まったように重くなった足をひきずるようにして、糸を辿っていった。公衆トイレの脇を通り、噴水広場を抜けて、ぼうっと歩いていた渡河麗は間近に迫った樹に気づかずに額をぶつけた。
 打ち付けた箇所を抑えながら、渡河麗はあれ、と思った。ぼんやりしていたとはいえ、自分は糸を追って歩いていたはずだが……首を傾げながら眼前の樹を見て、渡河麗は目を見開いた。樹の幹に何周も赤い糸が巻き付けられていた。そしてそこから伸びる糸は、自身の左手の薬指に続いていた。
 渡河麗は真っ暗な洞穴に頭から落ちて行くような気持ちになった。糸の先にいるのが自分の望む卓也先輩でなくても、せめて真っ当な人間であることを心のなかで願っていた。それなのに、生涯を共にする伴侶が、まさか公園の木だなんて。信じられない気分に、目の前が暗くなって、渡河麗はよろよろと地面に膝をついた。
「大丈夫?」と、頭上から男の声が聞こえた。放心状態の渡河麗は、虚ろな目で声のほうを振り向いた。
「お、なんだ渡河麗じゃないか。どうしたんだ、こんなところで」
 目の前にいたのは、卓也先輩だった。あまりの衝撃に、渡河麗は赤い糸のことなど忘却して、頬を赤くしながら答えた。
「え、あの、いや何となく……せ、先輩は、どうしてここに?」しどろもどろになりながら訊くと、
「俺、よくこの公園でランニングしてるんだ」
「ランニング?」
「そう、部活が休みの日は欠かさずね。部員には恥ずかしいから言ってないんだけどな」
 皆の知らないところでこんな努力を積み重ねてたんだ、と渡河麗は感嘆した。
「で、さっき走ってたら道端で倒れてる人がいたからさ。具合悪いのかな、と思って駆け寄ったらお前だったんだもの。いやあ、びっくりしたよ」
 快活そうに先輩は微笑むと、それじゃあ、と言って先輩は立ち去ろうとした。それを遮るように、
「ま、待ってください!」渡河麗は拳を固く握り締めながら、先輩を呼び止めた。
「ん?」
「あの……わたしも、一緒にしていいですか?」
 言ってから、渡河麗はハッとした。考えて言ったわけではなかった。自分が先輩に誘いの言葉をかけるときが来るなんて、夢にも思っていなかった。
「するって……ランニング?」
「はい!」
 先輩は少し目を丸くして、すぐに屈託の無い笑顔になって、
「いいぜ、やろう! 走ってるときの話し相手がほしくてさ……でも、渡河麗の足の速さじゃあ、置いてっちまうかもな」
「そ、そんなことないですよ!」
 絶対に追いついて見せますから、と宣言をした。
「じゃあ、さっそく今から走ろう。とりあえず公園をぐるっと1周な」
 そう言って先輩は走りだした。慌てて後を追おうとして、ふと赤い糸のことを思い出した。左手の薬指に糸はなかった。先ほどの糸が巻き付いた樹を見たが、ただ風に葉を揺らしているだけだった。
 おーい、早くしないと置いてくぞ、という先輩の声に返事をして、渡河麗は走り始めた。頬を切る風が心地良く、先程までの重い足が嘘のようにぐんぐんスピードが上がった。目の前を走る先輩の大きな背中を見ながら、渡河麗は自分がいま笑っていることに気づいた。なんだか、これから楽しいことが起こりそうな予感に、渡河麗はどうしても笑顔をこぼさずにはいられなかった。


<了>



『やすらぎの鍵』(テーマ:鍵)


 仕事帰りにいつのものようにコンビニに寄って、缶ビールとつまみを買った。商品の入ったビニール袋をだらりとぶら下げながら、坂上は深いため息をついた。
 頭のてっぺんまで禿げ上がった上司の叱咤する声が、鉛のような頭の中で反響した。響く声に同調するように、同僚や部下が己を蔑む声まで思い出された。確かに、入社してからの彼の営業成績は泥濁りの河川で釣りをするようにさっぱりで、それが上司の機嫌を大きく損ねていた。新入社員にも業績を追い抜かれて、心なしか、最近は部下が自分を見る目付きにも、憐れみや嘲笑の色が浮かぶようになっていた。坂上はまた一つ大きなため息をすると、背中を丸めながら家路を辿った。
 シャッターの降りた店が目立つ商店街を抜け、車の通りも疎らな横断歩道をわたり、公園にたどり着いた。人のいない公園では常夜灯が煌々と光を放っていて、坂上は公園の外周に沿って歩いた。
 すると、おや、とアスファルトの上でなにかが光った気がした。常夜灯の灯りに照らされた物体を拾い上げてみると、それは鍵だった。艶のある灰色をしている、普通の鍵。誰かの落としものだろうか、と訝しんでいると、鍵の頭部になにか変わった色彩で文字が彫られているのに気づいた。
 人気のない道を歩きながら、鍵を街灯の光に透かすようにして見てみると、それは「やすらぎの鍵」と書かれていた。やすらぎの鍵だなんて、妙な名前だなあ。坂上はそう思いながら、しかしこれは、なるほど鍵の本質を表しているようにも思えた。外部からの侵入を防いだり、貴重な物品を誰かに盗られるのを妨げてくれる、心強い看守。そんな小さなボディガードは、確かに胸に詰まった不安の砂を取り去り、やすらぎを与えてくれる、頼もしい存在だ。
 温かな気持ちに浸りながら、坂上は手先でその鍵を弄ったり、眼前に近づけたりしながら歩いていた。だから、手綱を失った馬のように猛スピードで真横から突っ込んでくる乗用車の気配も察知することができなかった。坂上の身体は乗用車のバンパーにめり込み、右脚と右腕が一瞬でぬれせんべいのように押しつぶされた。穏やかな夜の闇を、乗用車のブレーキ音がビリビリに切り裂いた。ガードレールに叩きつけられた缶ビールがひしゃげて、ビニール袋の中で泡を吹くシュウシュウという音だけが、静寂の只中にいる町の中で響いていた。


 商店街から数十メートル離れた場所にある葬儀場で、坂上は荼毘に付された。突っ込んできた車の運転手は、乗車前に飲酒をしていて、運転中かなりの酩酊状態だったことが分かり、怪我の回復を待った後に逮捕された。
 澄み切った青空の下、坂上の亡骸は家族や職場の面々に見届けられながら火葬された。事故の衝撃は凄まじく、彼の胸部には灰色に光る鍵がめり込んでいた。どうしても外すことができず、監察医も首を捻った。
「しかしまあ、とんだ災難だったねえ」と禿げた頭部を撫で上げて、男が言った。でっぷりとした腹をゆすり、葬儀場の隅でタバコを吹かしている。
「本当ですねえ」と彼の部下が鶏のように首を動かし、頷いた。
「まあ、正直なところ、彼にはさほど期待しておらんかったしな。ちょうど我社も人員削減に取り組もうと思っておったし……おや?」禿げた男はちらと足元に目をやった。窮屈そうに屈んで、なにかを拾い上げた。
「なんですか、それは?」上司の顔と鈍く光る鈍色の物体を交互に見ながら、部下が尋ねた。上司の手には灰色の鍵が握られていて、そこには焦げたバターのような変わった色合いの文字で、やすらぎの鍵と書かれていた。


<了>



『観察』(テーマ:穴)


 何となく部屋から空を見たら、穴が空いていた。昼間だというのに、夜のように黒い穴が浮かんでいた。慌ててテレビを点けると、世界中の科学者が穴について調査をしているが、害があるのかないのか、それすら全く分からないと告げていた。テレビを消して、俺は空に浮かぶ穴を眺めた。すると、突然凄まじい風が窓を揺らした。民家の屋根がガタガタと揺れて、耳をつんざくような音が響き、俺は目をつむって床に伏せた。そして静寂の時間が流れた。ゆっくり目を開けて外を見ると、空にぽっかりと口を開けていた穴はもうなかった。


「こら、なにをやってる!」
 父親の叱責の声が部屋に響いた。
「ごめんなさい、つい……」
 息子は謝りながらも、あまり悪びれた態度は見せない。
「そのケースの穴は、夜間以外は覗いたらダメだって言ってるだろう」
「だって気になるんだもの、人間の文明もこんなに発達してきたんだしさ。ちょっと直接、この目で観察したくなっちゃって」
 呆れた、という気持ちを隠そうともせず、父親は大きくため息をついて、
「せっかくここまで育ててきたのに、ここでお前の存在がバレたら元も子もないだろう。観察はケースの外からだけにしなさい」
 はあい、と返事をして、息子はスケッチブックにケース内の光景を絵にしていく。クレヨンで色付けされる絵と息子の顔を見て、自分も昔はこんなだったなあ、と父親は懐かしく思う。スケッチブックの表紙には「夏休みの人間観察」と書かれていてた。そのページに目を輝かせて、熱心に色を塗る息子の姿。その背中に生える小さな羽と自分の羽を頭の中で重ね合わせてみて、父親は自然と笑みをこぼした。


<了>



『暗黒世界』(テーマ:化け物)


 日本節足動物研究協会会長の樋波(ひなみ)博士は、ある日新種のダニを発見した。大勢の記者とカメラを前にして、たくわえた口ひげを誇らしげに弄りながら、
「これは世紀の大発見です。こちらの顕微鏡にその生物はおります。さっそく、皆さんにお見せしましょう」
 大型スクリーンに脚の生えた黒ゴマのようなものを映しだして、樋波博士は口から唾を飛ばしながら解説した。
 体長0.3ミリ程度の、砂粒より小さいその生物は、通常のダニと違って真っ暗な色彩を帯びていた。後体部には細かな毛が無数に生えている。そして一番の特徴として、どんなものでも捕食して栄養にしてしまうのだ。この発言には、怪訝な表情だった記者陣も反応した。
 顎体(がくたい)部から突き出る鋭い口吻は、近づいたものは何でも吸収してしまう。血液……尿……樹液……ダイオキシン……にんにく……石炭……マリファナ……エサの種類は問わなかった。あらゆるものを取り込んでしまう、まさに究極の生命体である。解説する樋波博士は目を血走らせ、熱弁を奮った。


 そもそも我が日本節足動物研究協会が設立された発端とその概要は、と恍惚の表情で樋波博士が語ろうとしたそのとき、小枝が折れるような音がした。どうやら顕微鏡が発信源らしく、博士が顔を近づけてみると、ダニを乗せていたプレパラートが割れていた。はて、どうしたことだろう、と首を捻っていると、至近距離で博士を撮影していたカメラマンが悲鳴をあげた。砂山が崩れるように、一眼レフカメラが火花を散らしながら、頂部から削れていった。なんだなんだと思っていると、今度は会見場の床が円を描きながら消滅していった。その時になってようやく、これは顕微鏡から逃げ出したダニが食い荒らしているのだと気づき、会見場は騒然となった。


 崩壊を止めようと、各政府機関は血眼になってダニの捕獲にかかった。しかしダニの移動距離は相当なもので、駆けつけてみたらすでに大穴が空けられた塀や折れた電柱が無残な姿を呈していた、という状態だった。
 何回か捕獲に成功したことはあった。機械によって吸引したり、火炎放射器で焼いたりもしたが、逆にダニによって機械ごと吸引されたり、かえって成長を促すだけだったりした。
 さらにダニは捕食をするたびに身体を巨大化させていった。太陽の光を跳ねかえす黒々としたその姿は、凝縮した憎悪や悪意に脚が生えているようにみえた。裏山に投棄された粗大ごみ……内蔵をぶちまけて米粒のような蛆が湧いている猫……湿気と腐敗でページがくっついたグラビア雑誌……挫傷したタンカーから漏れ出た重油……世の中に溢れるあらゆる邪悪を食べて、ダニは自らを悪意の象徴として成長させ続けた。


「おおい、やめろ、やめるんだ、おおい」近寄らないほうがいいという自衛隊員からの警告を無視して、樋波博士は蒼白な顔でダニの前に現れた。
「私はお前を見つけた、最初の発見者だぞ。生物というのは、誰かにその姿を認知されて初めて意味を持つんじゃ。お前に意味を付与した、つまり生みの親である私にそっぽを向いて、こんなことは許されるはずがない! おおい、もうやめるんじゃ、おおい……」
 コンクリート瓦を食べていたダニが、八本の脚を器用に動かして樋波博士の方を向いた。おお、分かってくれたか、と顔をほころばせて歩み寄る博士に口吻を差し出したダニは、ずちゅんと音を立てて樋波博士の血液を吸収し、皮膚や臓器や骨や筋肉を瞬時に取り込んでしまった。だから言ったのに、と苦笑する自衛隊員も、片っ端からダニの栄養源になった。


 世界中から強力な毒物や銃器や爆弾が投入されたが、まるで歯が立たなかった。衝撃で周囲の土地は荒れ果てたが、その地面もダニが消化してしまった。地球上を覆う海もダニによってあっという間に飲み干され、魚は家を完全に失った。家庭内の水槽で飼われている魚だけが難を逃れたが、結局家屋ごと食べられて絶命してしまった。
 ダニが成長のスピードを緩めることはなかった。あらゆる大地を食べて、閉ざされた氷を飲み、空を吸収した。もはやダニの成長は地球では収まりきらなかった。マントルを頬張り、地球の内核を飲み込んだダニは、いつの間にか宇宙空間に放り出されていた。ダニは手近にあった星々を口吻で吸収し、休むこと無く養分として吸収していった。宇宙の終焉を見守るものは、もはや誰もいなかった。


 ……なんだろう、ダニの様子がおかしい。気のせいだろうか、なにやらこちらのほうを向いている。いや、しかし、そんなはずはなかった。我々はこの物語を語る「視点」なのだ。話に直接関わることはできず、言葉を用いて読み手に伝えることだけを課された単なる「視点」である。だから、あちらは我々の気配すら感じることはできず、ましてこちらが捕食されることなどありえない。ありえないのだが……なんだろう、ゆっくりとこちらに近づいている。口吻をせわしなく動かして……まさか、気づいてるのか。我々「視点」の存在に。そんなはずはない。そんなはずは……やめろ、おおい、こちらに来るな。やめろ、おおい、やめてく


<了>