夜の短編喫茶その3

『最終電車に揺られて』(テーマ:終電)


「おばけ電車の話、ですか?」
「そうなんだよ、わたしの三味線教室仲間のなかで専らの噂になっていてねえ、もう気味悪くて仕方ないよ」
「へえ、それはどんな噂なんですか?」
「なんでも、その電車は終電が去ったあとのホームでドアを開けて、誰かが乗車してくるのを待ってるんだって。電車に客が飛び込んできたら出発して、そのまま黄泉の国に連れて行ってしまうらしいのよ」
「それは怖いですね。でも、終電が過ぎてしまったのに、どうして乗ってしまうんですか」
「そこが人間の心の弱いところなんだろうねえ。もう終電は去ってしまっただろう、と半ば諦めながら駅まで来た客を狙って、電車が出発を告げるベルを鳴らすらしいの。そうすると大慌てで改札をくぐり抜けて、電車に駆け込んでしまうらしいのよ。そしてそのまま帰ってこれなくなって……ああ、恐ろしい」
「なるほど。でもおばあさん、心配することはありませんよ」
「どうしてだい?」
「だって、本当に人がさらわれてしまったのなら、まずそんな噂自体、立つはずがないじゃないですか」
「いや、それが、その電車に乗った人の全てが連れて行かれるわけじゃないらしいのよ」
「というと?」
「その電車に乗ってしまった客の車両には、必ず誰か一人だけ乗客がいるんだって。それは小学生ほどの女の子のときもあるし、禿頭の初老の男性のときもあって、見た目は普通の人間なの。でもその正体は幽霊で、あの世へ乗客を連れて行く案内人の役割を担ってるらしいのよ」
「ほう」
「そしてその幽霊は、乗客が駅を降りるときにこちらを振り向いた人を連れ去って行くらしいの」
「振り向いた人を?」
「そうなんだよ。だから運良く振り向かずに駅に降り立った人は、犠牲にならなくて済んだらしいのさ」
「どうして振り向いた人だけをさらっていくんだろう」
「そのへんは、わたしも分からないねえ。あんまりたくさん連れていっても、あの世が人で溢れかえって、手に負えないからじゃないかねえ」
 丸めた包装紙をもう一度広げたような皺だらけの顔に、さらに深い皺を作りながら、老婆は快活に笑った。それに同調するように僕も口を開けて笑った。老婆の話にすっかり惹き込まれてしまった僕は、時間が経つのも忘れて、先ほど知り合ったばかりの老婆との会話を楽しんでいた。
 やがて電車がブレーキをかけてゆっくりと停車した。ふと駅に目をやると、降りるべき駅の名が書かれたプレートが見えた。危なく見過ごしてしてしまうところだった。僕は老婆に礼を言って、慌ててホームに降り立とうとして――そういえば、この老婆は何処の駅へ向かうのだろう。もう夜もすっかり深まっている。老人一人で帰るのは、いささか危険ではないだろうか。
「そういえば、おばあさんは何処の駅で降りるんですか?」僕は振り返りながら尋ねた。
 老婆は皺だらけの顔に笑みを貼りつけたまま、見たね、と云った。


<了>



『群れ』(テーマ:曲がり角)


 いてぇ、おい押すなよ。あんたこそ、もう少し詰めなさいよ。おいおい争いはよせって。なによ、あんた顔が近いわ。ちょっとお前どいてくれ、ヒジがもげちまう――
 この曲がり角では丑三つ時になると、人々の声と熱気が絶えなかった。とはいっても、聞こえるのは死んでしまった人の声であり、そもそも死人から熱気がするはずはないのだが。彼らが一丸となって声を張り上げている姿は、凄まじい気迫を感じさせた。
 鳥川に架かる橋の側にある内交差点とブリハ町交差点付近はほぼ直角の曲がり角で、交通事故のメッカとなっていた。この曲がり角は見通しが悪いうえに、信号機が設置されていない。さらに、都心の工場へ向かう大型車が乱暴な速度で驀進(ばくしん)するため、うっかり飛び出してきた自転車がトラックに跳ねられて、という事故がかなりの頻度で発生しているのだ。
 交通事故の多発地帯であるため、曲がり角には故人のための献花が結構な数量、それも毎日欠かさず供えられている。猫の額ほどの曲がり角には、淡い色合いの花が隙間なく並べられている。その光景は見ている者をいささか不気味な心地にさせるが、亡くなった者の死を悼む人々にとって献花は、生きる希望そのものだった。そのため、曲がり角に供えられる花の数は減ることがなかった。
 しかし、そんな死者への献花に最も手を焼いているのは、事故に遭った死者本人だった。
 献花には、その花の周辺に死者の魂を繋ぎ止めてしまう作用がある。もちろん、献花する人の思いが弱まったり、献花の回数自体が減少すればそのまま成仏できるのだが、この曲がり角に花を供える人々は、不運な事故で人を亡くしている方がほとんどだ。それゆえ死者を弔う気持ちも非常に強く、そして年月を経ても途切れることがない。
 そのため、この曲がり角に献花された花の周りには、夜な夜な死者の魂がひしめき合うことになる。だが、この情景がまさに阿鼻叫喚といった有様なのである。
 交通事故に遭った者ばかりが集まるので、腕や足が欠損して、新雪のように白い骨を破れた皮下組織からさらけ出している者など当たり前で、ダンプカーの巨大なタイヤに腹をすり潰され、レバーペーストのような形状の内蔵を腹からこぼして引きずる者や、文字通り首の皮一枚繋がったまま、ぶち切られた髄や神経をスパゲティのように垂らして血液を噴出させている者までいる。それらが狭い曲がり角で、押し合いへし合いしながら、お前が邪魔だ、いいやお前だ、などと罵倒しあっている光景を、地獄絵図と言わずしてなんと言おうか。そういうわけで、今日もこの曲がり角は多くの死者で賑わい、お互いの場所取りに死力を尽くしているのであった。


 そのとき、血や臓物を垂れ流しながら、汚らしい言葉でお互いを罵り合う彼らの耳に、何かが聞こえてきた。遠くのほうでかすかに聞こえる程度だったそれは、巨大な壁となって死者の方へ押し寄せてきた。罵り合いを止めた彼らは呆けたように音のする方を見た。すし詰め状態の死者たちの頭に、なにか悪い予感めいたものが覆いかぶさった。壁は荒々しい呼吸と蹄の音を響かせながら、次第にその姿を現してきて、ついに死者たちの目の前まで近づいてきた。その壁から、右腕と肩を失い、胸にガラス片をいくつも突き刺した飼育員風の男が、申し訳なさそうに、しかし人懐っこい顔をして歩み寄ってきた。
「あの、すいません。この曲がり角で死んだらここで世話してもらえって天の声がしたんで来たんですけど、大丈夫ですかね? それにしても、こんなにいらっしゃるとは思わなかったなあ。いやあ、しかし、後悔先に立たずとはよく言ったものですね、運転中にうっかり居眠りをしてしまうなんて。僕だけならまだしも、こいつらまで巻き添えにしちゃうんだから、申し訳ないというか、まいっちゃいますよ、本当に」
 頭に手をやりながら、はははと笑う彼の背後には、鼻を鳴らし、ビー玉のようなつぶらな目でこちらを睨む血まみれの豚の大群がいた。


<了>



『真夜中の手前で』(テーマ:雨)


 ファミレスの外では今日も、雨が降り続いている。
 あと10分ほどで日付が変わる、深夜のファミリーレストラン。客は大学生風の男女と、パソコンに向かって真剣に文章を打ち込むフリーターだけで、夜の空気と同じように、静かな時間が流れている。
 店内の窓際の四人掛けの席に女が座っている。テーブルに置かれたものはアイスコーヒーだけで、ほとんど手が付けられていない。
  女はぼんやりとガラス窓を伝う水滴の軌道を目で追っている。その姿は、水滴に映り込む通行人の顔を、一人一人観察しているようにも見える。しかし女の焦点はその誰にも合わせられていない。女の網膜はどんな情報も脳に伝達させていないようだ。そして時折オレンジ色のセーターの袖をめくり、腕時計の文字盤を睨んで、ため息をつく。思い出したようにアイスコーヒーを一口飲むと、また外の景色を曖昧に眺める。
 女には高校生のような純朴な雰囲気はないが、社会人特有の諦観の気配もない。おそらく大学生ぐらいの年頃と思われる。艶のある髪を肩口まで伸ばしている。野暮ったい一重まぶたに軽く上を向いた鼻梁。柔らかそうな唇は薄く開かれて、たびたびその隙間からため息が漏れる。
 女の隣の座席にはフードファー付きのダウンジャケットが置かれている。足元には水滴をまとったビニール傘が転がっている。ファミレスの店内は暖房によって快適な温度に保たれている。ずっと暖かい日が続いていたが、昨日になって急に冷え込みが厳しくなった。昨夜からやんわりと降り始めた雨は今日になって勢いを増し、林立する建物の隙間に休むこと無く降り注ぐ。
 雨に霞む街並みと腕時計を交互に見る、その規則的な運動を何度か繰り返して、女はダウンジャケットを着込んだ。ビニール傘と伝票を手にして、大きめのため息をしてから、うつむきがちに立ち上がる。店内の壁にかかる時計の針は23時56分を指している。
  女はレジで会計を済ませると、出口へと身体の向きを変える。そのとき、降りしきる雨の音に混じって激しい靴音が聞こえてくる。入り口の照明に照らされて、男のシルエットが浮かび上がる。自動ドアが開くのも待ち切れないという風にして駆け込んできた男は、肩で大きく息をしている。コートや髪が雨にぬれて、床に小さな水たまりがいくつも出来上がる。
 呼吸を整えながら、男は手に持っているケーキの箱を、目を丸くしている女の方へ差し出す。男は、遅れてごめん、と詫びの言葉を述べながら微笑んだ。女はその箱を受け取ると、雨に濡れた箱と男の笑顔を交互に見やり、ふいに大粒の涙をこぼした。
「間に合ったよな?」額に浮かぶ汗と雨の滴を拭いながら、男が尋ねる。女は嗚咽をこらえるように口元を手で押させ、うん、うんと何度も頷く。そうか、よかった、と男がホッとため息をつくと、行こう、と言って外を示した。外気に冷たくなった男の手に引かれ、目を涙で真っ赤にさせながら、女はファミレスを出た。
 ファミレスの外では今日も、優しい雨が降り続いている。


<了>



『兄と妹〜And need in mood』(テーマ:妹)


 お前は、その、俺の妹じゃないんだ、というか、そもそも人間じゃないんだよね、と目玉をきょろきょろさせてクソ兄貴が言うもんだから、あたしは一口も飲んでいないホワイトモカをずぞぞぞっ! と半分ほど一気に飲み干して言った。死ね。
 半分冗談、半分本気で言ったんだ。どうしても話したいことがあるんだ、って兄貴が玄関の三和土に額をこすらせながら土下座をした。朝っぱらから頭を下げてきたから、きっとこれはとんでもなくインポータントなことを伝えてくれるんだろうと思った。だからえっちゃんと一緒に映画を観る約束をドタキャンしてまで店に来たのに、ええい、もう、どうしてくれるのよ? 今からでもえっちゃんに侘びのメールを送って、仲良く『猿のしゃらく星』を観に行ったほうがいいんじゃないのかしら。
 そう思って席を立ったらお願いだから話を聞いてくれって、アホ兄貴が言う。鼻水をすすりながら声を張り上げて懇願するもんだから、周りに客の視線がレーザー光線のように、ズビビビッとこっちのテーブルに飛んでくる。あたしの顔をかすめて飛び交う光線を俊敏な動作で避けながらしぶしぶ席につくと、兄貴のやつ、スマートフォンを持ちだしていきなり口早に説明し始めた。
 で、その内容がまた噴飯物なんだけどさ。兄貴のスマートフォンには「妹と過ごす新しいエデンを、あなたに」という有料アプリが入ってる。ずっこけちゃいそうな名前だけど、会員数はうなぎ登りに増えているらしくって、通称『IAEA』と呼ばれてる、ってバカ兄貴が大真面目に言ってたけど、本当? まあこれに会員登録すると、まずどんな妹が欲しいか入力する欄があるんだって。項目はいっぱいあって、年齢や座高、血液型なんかは序の口で、たとえば右の掌の生命線の長さとか、手首にカッターの刃でつけた傷跡の本数と深さとか、左足の爪を全て陥入爪に罹患させてほしいとか言いたい放題で、もう、世の男一人一人にぶーっ! と唾を吹きつけてやりたいわよ。さげぽよでホワイトキックって感じね、ほんと。
 己の欲望に従って妹を注文したら、あとは決定ボタンをクリックして届くのを待つだけ。二、三日したらコンコン、ちわー、宅配便でーす、ってな具合で自宅に届いたそれは手ごろな枕みたいな大きさのダンボールで、「ナマモノ」という注意書きがあるのに商品名はパソコン部品になってる。ワイセツな品物にはそういう表記をして、ご近所や身内の監視網を突破させるらしいんだけど、なに。あたしって、北海道のカニ問屋から直接取り寄せたズワイガニと夜の夫婦生活のお供になる玩具の亜種なのかしら。
 届いた品物を開封すると、子宮から取り出されたばかりの赤ん坊くらいのサイズのパン生地みたいなのが入ってるんだって。クリーム色したその固形物を箱から出して、それで、これがまた傑作なんだけど、この塊をどうするかっていうとね。お湯の張った風呂に放り込むんだって。ザブーンっと湯を巻き上げながら。なにそれ、ギャグ? と思ってると、おばけパン生地は浴槽の中でうねうねと蠢いて形を変える。うねうねうねうねうねうねうねうねってクラゲのダンスみたいに揺れながら、きっかり三分、カップラーメンみたいに、へいお待ち、と風呂から妹が登場するってわけ。ほんとにもう、アホすぎて気が変になりそうだわ、まったく。
 そんな説明を一気にまくし立てて、アホ兄貴はガムシロップを七個投入したアイスコーヒーをすすって真っ赤になった鼻をかんだ。先週からずっと風邪をひいてて今もまだ完治してないみたい、ってそんなことは砂漠の隅にでも置いておいて、あたしは兄貴に質問を浴びせる。
「で、あたしがその、IAEAだっけ? そいつによって作られた妹だっていうわけだ。インスタントラーメンみたいにお湯で戻して身体から湯気を発しながら出来上がったのが、あたし?」
 そういうと、いかにも申し訳なさそうな顔をしながら、頷いたんだ、このへっぽこ兄貴は。あらら、あっさり首肯されちゃった。
「へえ。でも、あたしのこの脳みその収納棚にはちゃんとあるんだなあ。中学の運動会でお互い鬼の形相でタコさんウインナーを奪い合った記憶、逆上がりができないあたしを近所の緑化公園でフレフレガンバレー! と応援する兄貴の記憶、あたしの誕生日にモアイ像のペンダントを買ってきて大笑いされた兄貴の表情の記憶。ラベル付きできちんと保存されてるけど、これはなんなのさ?」
「ぜんぶプログラムされたものなんだ。俺がIAEAでぽちぽちと打ちこんで、あらかじめお前の頭にインプットさせておいたんだ」鼻水をすすり上げながら兄貴が言う。
「ふうん、じゃあなに、あたしもそのうち消えるわけ? この手足も髪も洋服も、全部パン生地に戻っちゃうんだ」
 洋服は別だけど、と言って兄貴がずぞぞぞっ! とアイスコーヒーを飲み干す。そして、ちらと時計を見たかと思えば、あと三分、と独り言みたいに呟いた。
 なにが三分なんだろう、神妙な顔して、このバカ兄貴は。今日ってエイプリルフールだったっけ? 鼻水を拭いすぎて鼻の頭が真っ赤になってるのがほんと滑稽な感じになってる。なかなか面白い物語だったけど、嘘をつくならもうちょっと上手くやりなさいよ、もう。
 でも、どうして急にこんな妄想を語り始めたんだろう。もしかして……いやいや、そんなはずないじゃない。だってあたしのこの脳内フォルダにはちゃんと兄貴との思い出が収められているもの。そう思って自分の頭をさすろうとしたら、水気の抜けたこんにゃくみたいな感触が頭部に当たってビクッとした。なんだろう、と思って手をみたら、なにこれ、あたしの手、こんなクリーム色だったかしら?
 どうして、ねえどうしてよ、なんでもっと早く言ってくれなかったのアホ兄貴。あれよあれよという間に、あたしの身体はドロドロに溶けていく。それを真正面で見ている兄貴の目は、いやだ、なんでそんな悲しそうな目をしてるの。やめてよ、そんな目をしないで。えっちゃんとの映画とかどうでもいいわ。バカとかアホとか死ねとかも言わない。誕生日に変なプレゼントを貰っても笑わないから、そんな目をしないでよ。手を伸ばそうとしたけど、あたしの手は急速にパン生地になっていって、視界もぼやけてくる。
 IAEAで作られたことや、身体がパン生地になることは怖くない。怖いのは消えていくことじゃないの。あたしはただ、兄貴に裏切られるのが怖くて、そして途方もなく泣きそうだ。ねえ、どうしてこんな悲しいことをするの。あたしの頭に捏造の記憶を入れて、兄貴はあたしにどうしてほしかったの。風邪をひいてる兄貴におじやを食べさせたときの、ありがとう、っていう笑顔は嘘だったの。ねえお願いだから、普段どおりの優しい顔を見せてよ。お願いよ、おにいちゃ


<了>