その建物は3.72±0.81×10^1軒

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 行きつけの居酒屋が先日、息を引き取った。

 4月の末、仕事帰りに一杯飲もうと店に立ち寄ると明かりが消えていた。定休日だっただろうか、と不審に思って扉の前の張り紙に目をやると、「しばらくお店をお休みします」と書かれていた。

 この居酒屋は店主の男性一人で成り立っていた。あのマスター、体調を崩したのだろうか。後ろ髪を引かれる気持ちでその場を立ち去り、帰路についた。そして5月も半ばを過ぎた頃、店内に明かりが戻り、張り紙は新しいものに代わっていた。そこには「今月いっぱいでお店を畳みます」と記されていた。

 店じまいする理由を尋ねる人はいなかった。どうやら田舎に帰らなければならない事情ができたらしい、というのは常連の会話を盗み聞きして知っていた。閉店する日が近づいても、店長は相変わらず笑顔でビールを注いで手頃な肴を作ってくれた。

 人間の細胞は3.72±0.81×10^1個あり、10年周期で全て入れ替わるらしい。私は昔から街は一つの生命体であり、林立する家屋は細胞のようだと思っていた。古い建物は取り壊されて、新しいビルが建つ。ボロボロのアパートが潰れて、立派な外装のマンションができる。駐車場が広がり、コンビニが増えて、撤去された更地の前に何が建っていたのか、もはや思い出せなくなった自分を発見する。

 指の隙間から砂が流れ落ちるように日々が過ぎていき、そのたびに町はよそよそしくなり、私は息苦しさを覚える。馴染みの店が消失し、ふいに知らない店が顔を覗かせ、面食らったりする。私は絶えず変化する町に追いつこうと駆けるけれど、その脚力には歴然とした差があり、その距離感が固いロープになり、私の首をゆっくりと締め上げていく。

 それでもたまに未知の店に足を踏み入れてみる。駅前でひっそりと営まれているワインバル、ランチの美味い定食屋、路地を抜けた先にあるラーメン屋……。新しい細胞に出会うたび、私は肺に新鮮な酸素を取り入れて、安堵感を得るのだった。

 行きつけの居酒屋はもぬけの殻になり、夜になっても店の明かりが灯ることはなくなった。もしも輪廻転生があるのならば、笑顔の似合う店主のいる、ビールの美味しい店が新たに建つことを、私は切に願う。