無題

浪人時代に書いた文章(未完)が発掘されたので、備忘録として載せます。



 先生、クラス日誌を持ってきました。
 お、サンキュー。どうだ、クラスの雰囲気は?
 はい、みんな『いい人たち』です。友達も、できました。
 そうか、なら良かった。新しい土地で色々と大変だろうが、何かあったら、先生に何でも相談しに来るんだぞ?
 はい、分かりました。ありがとうございます。
 おぉそうだ、クラス日誌だったな。いや、悪い悪い。
 はい、どうぞ。
 ありがとう。それじゃあ、気をつけて帰るんだぞ。
――かわいそう。
 ……え?
 かわいそう、先生。


一、


 夏休みが始まって三日後の、暑い日だった。
 僕は学校の図書室で、本を読んでいた。図書室に人はほとんどおらず、外からは運動部の熱を孕んだ掛け声と、吹奏楽部の楽器の音色だけが聞こえる。
 僕は本の世界にどっぷりと浸かっていた。アメリカで、男が売春婦を次々に殺していき、それらを自宅の庭に埋めるという猟奇的な話だった。
 不意に本に黒い影が落ちた。顔を上げると、白いポロシャツ姿の土屋が立っていた。
「一昨日、ちょっと変わった事件があったの」
 開口一番、彼女はそう言った。普段よりも幾分、彼女の目には輝きが込もっているように感じられた。窓から湿った風が吹き、肩で揃えられた土屋の真っ黒な髪が、さらさらと揺れる。
突っ立ったまま僕を見下ろしている土屋に、僕は尋ねた。
「この前のホームレスの事件は、もういいの?」
「いいわ、飽きちゃったから。襲われたホームレスさんには、悪い気がするけど」
 あまり表情を変えずに土屋は言った。
 僕と土屋は、普通の人とはかなり「ズレた」性格をしていた。僕らは学校では、一応は普通の人間として過ごしている。クラスメイトともちゃんと言葉を交わす。専ら聞き役専門だが、その方が性に合っているから、良い。
 しかし、過剰に群れたりはしない。他の人より目立つ事には嘔吐感がある。
 そういう点では、僕と土屋は似ていた。だからこんな趣味の悪い会話が出来るのだと思う。
「それで、今度はどんな事件なの?」
「これよ」
 土屋はスカートのポケットから折り畳まれた新聞紙を取り出して、見るように目で促した。
 こういうときの土屋は、悪戯を思い付いたガキ大将のような顔をする。それは普段の排他的で凛とした印象を与える土屋の顔と微妙なズレを生んでいて、可笑しかった。
 読んでいた本を横に置き、丁寧に畳まれた新聞記事を広げると「H中学校の生徒、行方不明」と書かれていた。
「これ、H中学校じゃないか」
 僕は内心、ほんの少し驚きながら彼女に言った。H中学校は僕と土屋が通っていた中学校だった。
「そうよ。失踪したのは小林香織っていう女子生徒。彼女の母親が、最初にこの事に気付いたらしいわ」
 自分の母校にはあまり興味が無いらしい。土屋は嬉しそうに、事件の内容を僕に語ってきた。


 小林香織は、H中学校の二年生だ。その日、香織は駅前にある大手の塾に行って、午後九時半頃に帰宅し、床に就いた。そして翌日の朝七時半頃、なかなか起きてこない娘を案じて部屋を開けた母親は、娘が家にいない事に気付いた。
 そしてそのまま、香織はぱったり姿を消してしまった。自宅からかなり離れたY公園の前には、何故か香織の自転車があったそうだ。
 心配した母親が、娘の携帯や、学校、遂には警察にも連絡をした。だが結局、香織の行方は分からないままだ。警察も周辺を捜索したが、手掛かりとなるようなものは見つからなかった。今もH中学校やY公園の周辺には警察官が巡回し、行方を追っているらしい。
「……それで?」
「ん?」
 いやいや、ん? じゃなくて。
「どうせまた、事件現場を見てみようって言うんでしょ」
 土屋は、こういったミステリアスな事件を調べるのが好きなのだ。
「うん、もちろん」
 そして……。
「あなたも一緒にね」
 僕も、その調査に巻き込まれているのだった。


僕が土屋を認識したのは、確か中学二年生の時だった。しかし互いに会話をした記憶はほとんどなく、土屋の本当の性格を知ったのは高校に入ってからだった。
中学生の時の土屋は、明らかに地味な人間だった。クラスメイトと交じる気が無いのか、それとも交じる方法を知らないのか。恐らく両方なのだろうが、いつも暗いオーラを身に纏っている、そんな印象だった。土屋の長い黒髪がそれをさらに際立たせていた。僕はそんな土屋にあまり興味を抱かなかった。
そのまま僕は三年生になり、土屋とは別のクラスになった。そして高校に入学するまで、僕は彼女の存在を忘れていたのだ。


 高校に入り、僕と土屋は同じクラスになった。そして僕らが互いを認識するのは、入学式が終わった後すぐのことだった。僕は同じ中学だった友人と会話をしていた。新しい校舎に新しい制服。環境の変化に多少興奮していた僕は、ふと側頭部に視線を感じた。振り向くと土屋が立っていた。彼女の深い瓶の底のような黒な瞳が、僕を真っ直ぐに見据えていた。
時間にして五秒も無かったと思う。でもその間、僕は蛇に睨まれた蛙のように体を硬直させた。
やがて彼女は幾分自嘲気味に言葉を紡いだ。
「お互い、色々と大変ね」
 唇を軽く歪曲させ、くすっと笑うと、彼女はそのまま自分の席に向かった。
 彼女の言わんとする事は、すぐに理解した。彼女は何故か僕の「ズレた」嗜好に気付いたらしい。
「だって、私と同じ匂いがするんだもの」
 いつだったか、控えめに笑いながら土屋は言った。何が可笑しいのか、僕にはよく分からなかった。


 僕は、怪奇的な事件が好きだ。そこは土屋も同類で、僕らはよくそういった話をして、そして面白がった。
 でも正確には、同類と言うには語弊があった。それに気付いたのは、僕らが出会って二週間後ぐらいだったと思う。
 土屋は、事件の現場を実際に目で見るのが好きなのだ。
 これはお互いに話をしていて気付いた事だ。どうやら彼女は自殺現場や奇妙な出来事のあった場所へその足で赴き、その場所に漂う空気を味わうのが好きらしい。僕には、そういった趣味は無かった。
 でも僕らは、この違いを苦痛には決して思わなかった。変な事件があって、それを調べて、話す。その作業だけで、僕らの閑散とした心は十分に賑わった。それは窮屈な学校生活で唯一の、心の息抜きだった。
「それじゃ、早速行きましょ」
 土屋は僕の返事も聞かずに図書室のドアへと向かった。ポロシャツから出ている彼女の細く白い腕が、僕の目に印象的に映った。
 僕は本を元の場所に戻し、土屋の背中を追うように図書室を出た。


 靴箱で靴を履き変え、学校の正門へ歩いた。腕時計を見ると十一時半を少し過ぎたところだ。外の日差しは強く、こめかみの辺りから汗が生まれてくる。
 僕の右斜め前を行く土屋は端整な顔立ちはそのままに、ただ黙々と足を動かしている。僕はそれを模倣して歩きながら、夏休みの前にも同じようなことをやったな、と思い出していた。
 一週間ほど前に、僕と土屋はある事件を調べていた。
 ホームレス襲撃事件。僕らは勝手にそう呼んででいて、新聞やニュースでも似たような名前で呼称していた。が、メディアで取り上げられたのは事件のあった日の夕方だけで、翌日にはすっかり雲散霧消としていた。
 そして事件のあった翌日の放課後、僕は土屋に話し掛けられたのだ。
――昨日、ちょっと変わった事件があったの。
 土屋は僕に事件の内容を話すと、その現場に行こうと誘って来た。僕は肯定の返事をした。


 さて、正門の前まで来た。ここから左に真っ直ぐ行けば、Y公園までは徒歩で向かってもせいぜい十分ほどの距離だ。正門の周辺に人影は無く、何処か遠くの方でバイクのエンジン音が聞こえる。
「Y公園に行くの?」
 手を扇に見立ててそよ風を起こしている土屋に、僕は言った。
「そうよ。ねぇ、途中にあるコンビニに寄って、公園で昼ご飯を食べない?」
 彼女の提案に、僕は頷いた。事件現場でランチをするというのは彼女らしい発想だと思った。それに、確かにお腹は空いてきていた。
 普通じゃない――それは僕にも土屋にも、承知の事だった。ただ僕らにとっては、人が音楽やスポーツを嗜好するように、そういう類のものに触れるのが楽しいのだ。
 僕らは、小林香織の失踪した公園へと向かった。