スイートドロップ

 まだ目を開けちゃダメなのかなぁと思いながら、私は誰もいない教室で美術館に展示された造形物のように椅子に座っていた。左手に握ったスイートピーの花束の甘い匂いが鼻腔をくすぐる。身体の内側から沸々と湧いて、口から飛び出してしまいそうな焦燥感と不安を、その香りが何とか塞き止めてくれていた。
 卒業式が終わって教室に戻り、級友と別れの言葉を交わしていると、塚本君に呼び止められた。この土地を離れて遠くの町に行ってしまう君に見せたいものがあるんだ、少しここで待っていてくれないか。その言葉が合図だったのだろうか、クラスメイトは急かされるように、しかしどこか楽しげな気配を制服のポケットに忍ばせながら、教室を出ていった。突然の出来事に当惑する私に、塚本君は柔和な笑みを浮かべて、「とりあえずそこの椅子に腰かけていてくれ。あ、それと、僕が合図をするまで目は開けちゃだめだよ」と指示した。制服や皮膚を通過して直接心に語りかけるような彼の声には、不思議と人を従属させる効果があった。気体の分子運動のように揺れ動く感情をどうにか抑えながら、私は彼の言葉どおり椅子に座り、軽く両目をつむった。廊下を駆ける彼の靴音が、いつまでも耳朶を打って離れなかった。
 数十分ほど経った頃、扉を開ける音が静まった教室の壁に反響した。やあお待たせ、と私に声をかける彼は、おそらく走ってきたのだろう、動物じみた呼吸を断続的に続けていた。「それじゃあ屋上に行こう。僕が手を引くから、目は閉じたままでお願いね」と塚本君は云った。私は曖昧に頷いて立ち上がった。人気のない廊下を塚本君に先導されながら、私は「一体なにがあるの?」と尋ねた。ちょっとしたサプライズだよ、と彼は云った。君の門出を祝う、とっておきのサプライズさ。その言葉に顔や頸部がカッと熱くなるのが分かった。花束を握る手にじんわりと汗が滲む。まぶたの裏にある映写幕に、塚本君の屈託の無い笑顔が投影されたような気がした。


 屋上へ続く階段を昇り、建付けの悪いドアが金属的な悲鳴をあげた――同時に吹き込んでくる、新緑の匂いを懐に抱え込んだ風。
 塚本君に支えられながら落下防止用のフェンスを跨ぐと、彼は屋上の端すれすれまで私を誘導した。耳元で囁きを繰り返す春風の暖かな息遣い。その吐息を散らすように、ぱん、と小気味の良い肉で肉を打つ音がした。彼が自身の両手を打ち鳴らしたらしい。そして、さあ、と格式ある儀式の進行役のような明瞭な声で、目を開けてみてごらん、と云った。
 ゆっくりと双眸を開くと、空を焼く西日が目を射抜いた。しばらく両目をしばたたかせると、次第に目が本来の機能を取り戻し始めた。遠くの送電塔から伸びている電線が空に亀裂を作り、風がいたずらにそれを弄んでいる。緑が映える丘陵地を背景に、ひしめき合うようにして並ぶ建て売り住宅やマンション群。その中から自己主張して屹立する銭湯の煙突。慣れ親しんだ――そしてもうじき別れを告げなければならない、生まれ育った町の風景。そして視線を足元のグラウンドに向けて――私は眼下に広がる光景に息を飲んだ。
 私と塚本君を除く三十六名のクラスメイトが、微笑みながらこちらに大きく手を降っていた。その彼らと同じ数だけ用意された、淡い桃色のスイートピーの花束。それが均等に並べられて巨大なハート型を作り、さらにその周囲を級友が囲って、二重のハートマークを描いていた。
 「おめでとう!」と男子生徒の声が聞こえた。それを皮切りに、級友の声が夏の日の夕立のように降り注いだ。「遠くへ行っても、俺らのこと忘れるなよ!」「向こうへ行っても元気でね!」何度拭っても生まれてくる涙のせいで声の主の顔は分からなかった。彼らの言葉の一つ一つが涙腺のポンプを押し上げ、私はどうしても嗚咽を止めることができなかった。「こらこら、せっかくの門出なんだから泣かないの!」「そういうあんただって泣いてるじゃないの」「ち、違うわ、これは汗よ、汗!」ハート型の輪から笑いが起きた。私も顔面を涙でぐしゃぐしゃに汚しながら、声を出して笑った。
 ひとしきり笑うと、塚本君は微笑を浮かべながら「はい、これで全員分だね」と云って、私に花束を手渡した。受け取ると同時に、私は塚本君の胸に飛び込んだ。頭で考えていたわけではなく、まさに衝動的な行動だった。時間が呼吸を止めたかのようなわずかな沈黙のあと、彼は何も言わずに私の両肩を抱きしめた。制服を通して彼の掌から熱が肌に伝わり、火傷痕になる気さえした。その熱は血液に乗って全身を駆け巡り、閉じかけた私の涙腺を再び緩ませた。柔らかな無言の時が砂のように流れた。しばらくすると、彼は肩から手を離し、私を真正面から見据えながら、ありがとうと云った。その両目は深海から汲み取った水で満たされているように、澄んだ色をしていた。私は微笑みながら、うん、と首肯して、グラウンドに向き直った。
 それじゃあみんな、と塚本君が溌剌とした声で屋上から身を乗り出しながら云った。「これから我がクラスの大事な一員である、彼女の門出を見届けようじゃないか!」と云うと、水鳥たちが一斉に羽ばたいたような拍手が起こった。
 「ありがとう!」と私は喉を振り絞って、眼下で微笑むクラスメイトに感謝の言葉を叫んだ。そしてスイートピーの花束を両手にしっかりと持ち、私は屋上の淵で立ち上がった。風が舞い上がり、肩口で揃えられた髪がなびいた。涙はもう流していなかった。決心を固めた人の目に涙は浮かばないのだと、私は初めて知った。
 「それでは、彼女の門出を祝福して……」と塚本君が威風堂々と言い放った。クラスメイトは一様に屋上に目をやり、直立不動の姿勢で胸を張って立っていた。
 大きく息を吸い込んだ塚本君の「敬礼!」という号令と共に、クラスメイトは右手の肘を曲げ、右人差し指を頭部に付けて厳かに敬礼をした。そして私は両脚に力を込めて、屋上から飛び降りた。自分の身体が悠々と空を舞う綿毛になったような、今まで味わったことのない浮遊感と多幸感に包まれ、私はもう一度ありがとうと呟いた。その囁きは春風に乗って級友の隙間を駆け抜け、やがて銭湯の煙突が覗く町の中を吹き渡っていった。


 夜の帳が下りた学校のグラウンドを、閑散と置かれた常夜灯が照らしていた。
 頼りないその灯りの輪の中心に彼女はいた。周囲の暗闇から浮かび上がるような彼女の白い両手には、真紅に色づいたスイートピーの花が春の夜風に揺れていた。可憐に花弁を広げる花々が縁取るハートマークは幸福の赤で満たされ、そのなかで眠る彼女は慈悲深いほどの笑みをたたえていた。級友から門出を見送られた彼女は、自らの意思で、真っ赤に染まる海原へと船を漕ぎ進めていったのだ。クラスメイトの声に後押しされて、しかし決して振り向くことなく続くその船旅のなか、彼女は濃い潮の匂いに混じって懐かしい匂いがするのに気づいていた。それは鼻腔をくすぐるように甘く、そして郷愁を誘う、スイートピーの香りだった。

                                      <了>