灰色に咲く花

昔々、生物が死に絶えて荒廃した世界に、唯一の生き残りである男がいた。
男は瓦礫の上をあてもなく歩いて、助けを求めた。
おーい、誰かいないのか。いたら返事をしてくれ。
喉を絞りきるような声は、倒壊したビルの残骸に吸い込まれて消えてしまった。


汚水を含んだ脱脂綿のような雲が重たげに空を流れ、遠近感を奪う。
やがて男は痛みを伴うほどの空腹と喉の渇きを覚えた。
しかし生物の絶滅したこの場所には、雑草の一つ、雨水の一滴も無かった。
男の視界は磨りガラスのようにおぼろげになり、とうとう歩けなくなってその場にうずくまった。
もうだめだ……俺は、死ぬんだ。
横たわる男の身体を、絶望の影が覆いかぶさった。
しかし意識を失う間際、定まらない男の視線があるものを捉えた。
それは、足だった。
散り散りになった男の意識が、グラスが割れる映像を逆再生させるように急速に収斂していった。
多少骨ばってはいるが、筋肉は大ぶりで噛み応えがあり、砂礫や石の上を歩いて負った切り傷からは真紅の血が滲んでいる。
男は本能に突き動かされるままに、足に歯を立てて咀嚼し始めた。
唇を脂肪と血液でぬらぬらと濡らしながら、男は無我夢中で足を食べた。
一息入れる間もなく、男は腰、腹部、胸部、上肢、頭頚部を噛み、味わい、飲みこみ続けた。
それは生への執念だった。男の目はもう虚ろではなく、鮮明な光が宿っていた。
決壊したダムの水は、もう誰の手にも止められなかった。
男は生きるために、真っ暗な死の淵を駆け落ちていった。


雲の切れ目から真っ直ぐに伸びた太陽光が大地を刺した。
コンクリート瓦礫のひび割れから、小さな花が顔をのぞかせていた。
それは太陽の光を浴びて、黄金色の粒子を放ちながら葉を広げていた。
その葉っぱの表面を、生まれたての赤ん坊の柔肌に触れるように優しく撫でる男の姿があった。
男は身体の全てを食べ尽くし、完璧な死を背負うと同時に永遠の生を得た。
その喜びを共感できる人間はもうこの世にはいなかった。
しかし、男はそれでも構わなかった。世界は温かく、美しいものに溢れているから。
なあ、そうだろ? 瓦礫の街で男は初めて微笑を浮かべた。
名前のない花が揺れた。