豚飼

「暇だなぁ……」

 頬杖をつきながら、平櫛優花が呟いた。彼女は小さな欠伸を一つして、それから上体を後ろに反らしながら伸びをした。座っていた木製の椅子がギシギシと音を立てて、ミディアムボブの髪が揺れた。

「私、コーヒー淹れますけど、店長も飲みますか?」椅子から立ち上がって、彼女は言った。

「ありがとう、貰うよ」作業していた手を止めて、僕は答えた。掛時計に目をやると、午後三時を少し過ぎたところだった。

 風のない日の湖の底のような、穏やかな時間の流れ。今日も普段と変わらずに、客足は疎らだった。午前中に机の修理の依頼が一件あり、昼過ぎにカップルらしい二人組が来店しただけだ。

 修理の申し入れがあった机は、四脚を馬の大腿骨で支えるダイニングテーブルだ。依頼内容は、机のがたつきと塗膜の剥がれを直して欲しいという簡単なものだった。脚の長さの調整は既に終えているので、あとは塗装を施せば修理は完了だ。

 昼過ぎに訪れたカップルは、どうやらお揃いの品を求めて来たらしい。サメの歯を用いたピアスや、羊の革が使われたブックカバーなどを手に取り、真剣な目で品定めをしていた。やがてヒグマの爪をあしらったネックレスを二つ購入して、朗らかな笑顔で店を出て行った。

「今日もあんまり来なかったですね、お客さん」優花は慣れた手つきでコーヒー粉や水を用意し、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。

「そうだね……」あくびを噛み殺しながら、僕は言った。

 椅子に座ったまま、辺りをさっと見渡す。十二畳ほどの広さの店内には、僕が制作した家具や装飾品、雑貨の数々が陳列されている。ウサギの毛皮をなめした手袋――牛の皮を張った太鼓――柄の部分に鹿の角が使われたナイフ――柔らかな触感が特徴的な子ヤギの革の財布――この店で売られている品々は、動物の骨や皮などが使われている一点ものばかりだ。

「はい、どうぞ」優花がコーヒーの注がれたコップをこちらに手渡した。「店長、やっぱりこの店の外観、何とかしましょうよ」

「何とかって、例えばどうするの」熱いコーヒーに息を吹きかけながら尋ねた。

「もう少し人が入りやすい雰囲気にして……」

「いいんだ、うちは隠れ家的な佇まいが売りなんだから」唇を突き出すようにして、コーヒーを啜る。胃の腑に熱い液体が落ちる感覚。コーヒーから立ち上る湯気と共に、眠気が薄れていく。

「それにしたって、こんな店構えじゃ来る人も来ませんよ」優花が店の入口に視線を向ける。「ただでさえ、ここは人通りが少ないのに……」

 この店は国道から一本外れた路地にある、いわゆるインテリアショップだ。周辺はひっそりとした住宅地で、優花の言うとおり人の往来は乏しい。

 加えて、店の窓は全て磨りガラスで、外から店内の様子を窺うことはできない。店名の横に「インテリアショップ」と書かれた看板を置いたり、季節の花を店先に飾ったりしているが(これは優花のアイディアだ)、一見した限りでは、美術作品のギャラリーか、小料理屋を想起させる見た目になっている。

 また、店の入り口付近には巨大なケヤキの木が立っている。店のシンボル的な役割を担っているこの大木だが(店名もケヤキの英語表記から取って「ゼルコバ」にした)、繁茂した葉が影を落としていて、どこか陰鬱な雰囲気を店に与えている。余程の好奇心を持ち合わせていない限り、容易に足を踏み入れようとは思わないだろう。優花がこの店の造作を気にかけるのも、当然である。

「うちはあくまで趣味でやってる店だし……」こめかみの辺りを掻きながら応える。「それに、この店は扱ってるものが特殊だからね。こんな風に排他的な趣にしたのも、ひっそりと営業したかったからなんだ」

「店長がそう言うなら、良いですけど……」絵の具を溶いたような色のコーヒーを見つめたまま、優花が呟いた。「個人的には、店長の作ったものがもっと広まって欲しいなって思います。もったいないですよ」

 優花は去年の春頃からゼルコバで働いている女子大生だ。大学合格を機に地方から上京してきて、この街で一人暮らしをしている。住んでいるアパートの近所にあるこの店を偶然発見し、並んでいる商品を見て一目惚れしたらしい。翌日には履歴書を持参して、真剣な目で僕にアルバイトの申し出をしてきた。自分一人で切り盛りできる程度の手狭な店なので、最初は断るつもりでいたが、彼女の熱意に気圧されてしまい、気がついた時には雇い主になっていた。

「買いかぶり過ぎだよ」これは謙遜ではなく本心からの言葉である。「でも、そうだな……店先の草むしりぐらいは、そろそろ取り掛からないといけないかもね」

 優花の口が何か言葉を発するために動き始めていたが、その声はドアベルの軽やかな音によって遮られてしまった。

 

「いらっしゃいませ」コーヒーが半分ほど残るカップをカウンターに置いて、優花が声をかけた。

 入店したのは大人っぽい雰囲気の女性だった。白のブラウスにネイビーのフレアスカート姿で、黒髪をふんわりとカールさせている。彼女は僕ら二人に向けて軽く会釈し、その場でしばらく店内を見回していた。空気中に漂う酸素を目で追うような、不思議な視線の向け方だった。やがて彼女はこちらに向かって歩を進めて、カウンター越しに声をかけてきた。

「すみません。こちらの店では、オーダーメイドは可能ですか?」桜の花がぱっと咲くような、柔らかな声だった。

「ええ、できますよ」優花が目尻を下げて笑った。「どのような品をご所望ですか?」

「花瓶を作って欲しいんです」

「花瓶ですか……」僕は顎に手を当てて思案した。うちで扱っている花瓶は、牛革のラベルとガラス瓶を組み合わせたような、簡単なものしかない。だが、客の要望にできるだけ応えるのが、職業上の僕のポリシーである。「デザインや材料にも寄りますが、一週間ほどで制作できますよ」

「そうですか、良かった」女性は安堵した様子で言った。

 店の中央には丸テーブルが設えてあり、二人がけのソファがテーブルを挟むように、対面式で置かれている。そのうちの一つに座るよう彼女を促し、僕らも向かいのソファに腰掛けた。

「その、材料についてなんですが……」女はやや目を伏せたまま言った。「私の家で飼ってる、ペットの足を使って欲しいんです」

「ペット?」優花が調子はずれな声を出した。「ええと、ご自身で飼われているペットを素材に、花瓶を作るということですか」

「ええ、そうです」はっきりとした口調で、女は言った。「お願いできますか?」

 僕と優花は顔を見合わせた。女の口ぶりからは戯けているような様子は感じられない。

「ちなみに、何の動物を飼われているんですか」女の頼みを一旦保留にして、僕は尋ねた。

「豚です」女は温和な笑顔をたたえていた。「体重九十キロほどの、若い豚なんです。私の家では、豚を数匹飼育していまして……」

 見かけによらず、畜産農家なのだろうか。彼女がスコップを使って豚の糞の掃除する姿を想像してみたが、どこかチグハグな印象を受ける。

「あと、花瓶のデザインは、こういう風なものをイメージしていまして……」スカートのポケットから写真を一枚取り出して、こちらに差し出した。

「これは……熊ですか?」

「そうです、私の祖父が作ったものでして……幼い頃から眺めていた、お気に入りの作品なんです」

 写真には熊の足でできた花瓶が写っていた。花瓶の大きさは縦横十五センチほどで、骨や肉などは綺麗に取り除かれている。艶のある体毛が茂り、尖った爪が地を支えていた。

「なるほど……」両手を何度か擦り合わせてから、僕は女の目を見た。「花瓶の件ですが、技術的には可能です。豚の革は、国内ではわりとポピュラーな材料ですし、手前味噌ですが、防腐処理の腕には自信があります」

「本当ですか」純真無垢な少女のようなほほ笑みを投げかけられて、僕ははっとした。だが、心の中でかぶりを振る。

「ただ、生きている動物を扱うことは、我々にはできません」心持ち語調を強めて言った。

「それは、どうしてですか」きょとんとした表情で、女は言葉を紡いだ。

「え?」我ながら間抜けな声が出た。

「どうして、生きている動物を商品に使ってはいけないの」

「それは、当たり前ですよ」確か、動物の生命を尊重する法律があったはずだ。「無闇に生物を傷つけたり、殺してはいけないのです」

「ふぅん……」女は心底不思議そうな表情を浮かべた。「それじゃあ、例えば一匹の蚊が目の前を飛んでいて、その蚊を手で叩いて殺しても、私は罪に問われるのですか」

 僕をからかっているのだろうか。内心で疑問に思いながら、僕は上唇を舌の先で湿らせた。

「虫はいいんですよ、殺しても。生類憐れみの令なんて、もう何百年も前の法令だ……」

「どうして虫は良くて、私のペットの豚はだめなのかしら」

 まるで低学年の子どもを相手に話しているみたいだ。僕は短く息を吐き、「そもそも、お客様は豚を愛玩動物として飼われているんですよね。大切なペットに危害を加えるなんて、許されるはずがありません。それこそ、虐待になってしまう」

「……小学校三年生の夏休みにね、私、カブトムシを飼っていたんです」

 女が乱暴な運転でハンドルを切り、話の流れを変えてきた。

「カブトムシ、ですか」狼狽を悟られないように注意して、女の話に合わせる。

「そう、地元の裏山にクヌギが林立していて、たくさん採れたんですよ。ちょうど使ってないプラスチックのケースが自宅にあったから、一匹捕まえて飼育していたの。ケースに敷き詰めた土にオガクズを撒いて、餌は毎日やって、湿度や温度に注意を払って……だけど、ある日うっかり蓋を開けっ放しにしていて、カブトムシが逃げ出したの。空っぽのケースを見て、慌てて部屋の中を探したわ」

 話の着地点が読めなくて、焦燥感が肌の表面を撫でていく。

「それで、カブトムシはどこにいたんですか」

「部屋で私が広げていた新聞紙――気になった新聞の記事を切り抜いて集めるのが趣味だったの――の下に隠れていたんです。私、それに気づかないで、うっかり踏みつぶしてしまったの。足の裏に嫌な感触があって、痰に似た黄色い汁が紙に広がっていった。新聞紙を持ち上げたら、ぐちゃぐちゃの内臓を晒したカブトムシがいて……」

 ほんの少し間を置いてから、女は僕の顔を見据えて言った。「でも、私は警察に連れて行かれたりはしなかったわ。大切に飼育していた生き物を、殺してしまったのに」

 女の意図がやっと汲み取れた。愛情を注いで育てた虫と豚、どちらの生命も同価値だと言いたいのだろう。そして、飼育している豚を傷つけたとしても、それは罪にはならないと表明しているのだ。

 だが、女の主張を理解した瞬間、僕は二の句が継げなくなっていた。虫の命と豚の命が、等号で結ばれるわけがない……そんな数式が成立しないことぐらい、誰にでもわかる自明の理だ。きっと彼女の論理には綻びがあるはずだ。

「それは、故意ではなかったからですよ」浅い呼吸のまま、僕は言った。「あなたに殺意がないのだから、罪に問われることもないですし……」

「あら、じゃあ過失致死傷罪はどうなるんですか」間髪入れずに女は答えた。「交通事故などでよくあるでしょう。明確な殺意が無くても、人を殺してしまったのなら、刑事罰に問われることもあるわ」

「でも、虫と人間は違います。両者の命の重さが、同じはずがない……」

「そう思い込んでいるだけなのです」女は優しく諭すような声色で言った。「命の重さは平等です。虫も、豚も、人間も……どんな生物であろうと、関係はありません」

 空き巣に荒らされた部屋のように、頭の中が混迷を極めてきた。会話の主導権がいつ、女の手に渡ってしまったのだろう。今までの話の流れを遡ろうとするが、真っ直ぐな女の視線がこちらを射抜き、僕の脳は石化したみたいにこわばってしまう。

「あの、お客様」渡りに船だった。優花は少しばかり身を乗り出して、落ち着いた口調で言った。「お客様は、ご自分のペットの豚の足を、花瓶にしたいということでしたよね」

「ええ、そうですよ」女が優花の方へ向き直り、会話を進める。

「そもそも、どうして花瓶なのでしょう」

「飼ってる豚が今朝、私に花をプレゼントしてくれたからです」事も無げに女は言った。

「……豚がですか?」

「今朝、ペットの豚と一緒に近所を散歩していたんです。彼の首輪から伸びる、リードを引きながらね」女の声色が、心なしか熱っぽくなる。「のんびりと歩いていたら、コンクリートの地面の亀裂から、真っ白なコスモスが咲いているのを、彼が発見したんです。彼はしきりに鼻を鳴らして、コスモスの場所を私に知らせてくれました。私が花を摘み取ると、今度は豚がしきりに己の後ろ足を差し出すのです。『どうしたの、話してごらん』と呼びかけると、この後ろ足を花瓶にして、花を生けて欲しいと、目と声で訴えてきたのです。あまりの愛くるしさに、私は彼の頭を何度も撫でて、鼻にキスをしました」

 ちらりと優花の表情を窺うと、訝しむような目つきで女を見ていた。しばらく陶酔状態だった女も、急に我に返り、「すみません、つい興奮してしまって……」と言った。

「いえいえ、いいんですよ」優花の頬には引きつった笑みが貼り付けられていた。「失礼ですが、お客様には、良心の呵責はないんでしょうか」

「それは……私がペットの豚の足を花瓶にすることに対して、ですか?」一語一語を噛みしめるように、女は言った。

「ええ」優花は深く頷いた。「私は実家で犬を飼っていますが……もしあの子が誰かに傷つけられたらと思うと、心が痛みます。自分のペットが酷い目に遭って、悲しいと感じるのは、飼い主として当然だと私は思うのです」

 優花の口ぶりには、憤りの色が微かに滲んでいた。表面的には笑みを浮かべているが、湧き上がる気持ちを押し殺そうと努力しているのが伝わる。

「私、庭で家庭菜園をしているんです」優花の口調とは対照的な、場違いなほど平坦な言い方だった。「毎朝庭で採れた野菜でジュースを作っているの。チンゲンサイにニンジン、セロリをジューサーに放り込んで、それに皮付きのリンゴも入れて混ぜると、とても美味しいジュースができるんですよ」

「あの、それが何か……」眉間に苛立ちのしわを寄せて、優花が言った。

「自分の育てている野菜をミキサーで粉々にしても、私、ちっとも心が痛みまないわ」女の表情からは、何の感情も読み取れない。「野菜も生きているのにね」

「動物と植物は、違います」膝の上に置いた手を握りしめたまま、優花は言った。

「どうしてそこに差異が生じるのかしら」

「植物には痛覚がないでしょう。動物は傷つけれたら痛みを感じるし、苦しみます。そんなの可哀想じゃないですか」

「それなら、魚の活造りを作る料理人は、全員畜生になりますよ」会話の内容にそぐわない、女の柔和な声。「それとも、あなたはデパートで切り身の魚を見かけるたびに涙するの?」

「魚は、食用だからいいんです」

「なんですか、それ」女の声には嘲りの色が浮かんでいる。「食用か否かの基準なんて、一体誰が定めたんですか」

「そんなの、常識的に考えればわかることです」突っぱねるような口調で、優花が言った。

「じゃあ、牛はどうですか」

「もちろん食用ですよ」

「鳥は?」

「食用です」

「豚は?」

「豚は……」食用です、と言いかけた口を慌てて閉ざしたらしい。優花は小さな咳払いをした。「家畜の豚は食用です。それ以外の用途で育てられた豚は食用ではありません」

「じゃあ熊は?」

「熊肉の缶詰がありますし、食用ですよ」

「カエルは?」

「食用のカエルがいるはずです。脚の部分を食べると聞いたことがありますね。私は遠慮したいですが……」

「猫は?」

「食べませんよ、当たり前です」

「犬は?」

「食べるわけないじゃないですか」

「犬食文化ってご存じですか?」

「え?」不随意的に喉から漏れ出た声。

アジア諸国では、今でも犬の肉が食べられているんですよ」顔にかかった黒髪を、女がかき上げる。「市場では犬肉が売られているし、犬肉専門の店が並ぶ通りだってあるんです」

「犬を食べるなんて、野蛮人がやることです」断言するように優花が言った。「そんな文化は理解できません……それに、私には無関係です」

「江戸時代に書かれた『料理物語』という本にはね、当時の人々が味わった、様々な料理のレシピが載っているんです。そこには、犬肉を使用した料理も書き記してあるんですよ」

「そんな、嘘でしょう」

「本当ですよ」血の気の引いた優花の顔を、女がじっと見つめた。「江戸時代の人々にとって、犬の肉は食用だったんです。つまり、我々の先祖は犬を食べていた。私たちを形成する遺伝子の中には、ちゃんと犬食の記憶が刻まれているのよ」

 くぐもったうめき声を上げ、掌で口を覆いながら、優花は店の奥へと走っていった。シンクの縁に手をつき、片手で腹を抑えて嘔吐している。

「あら、どうしたんでしょう」口元に指を当てながら、優花の方を一瞥して、女は言った。

「少し質問を重ねただけなのに……」

 汗がなめくじになり、背中を這いまわっている。僕はじっと丸テーブルを見つめながら、女の様子を窺っていた。どうしても、女の顔を直視することができない。

「それで、花瓶のことなんですけど……」視界の隅に写る女が、身体をこちらに向けているのがわかる。

「はい……」唾液の分泌が足りないらしく、口内が酷く乾いている。

「今から、材料の豚をこちらに持ってきてもよろしいでしょうか」顔を上げると、女が掛け時計をちらりと見ていた。「自宅にいる豚も、私の帰りを待っているでしょうし」

「そ、それは困ります」語気を強めて言った。「先ほども申し上げたとおり、当店では生きた動物をそのまま扱うことはできません」

「そうですか」女の顔に落胆の影が広がる。「では、また改めてお伺いしますね」

 呆気にとられる僕を置いて、女は席を立った。そして入店したときと同じように会釈をして、優雅な足取りで扉を開けて帰っていった。ドアベルの空虚な音が、いつまでも耳の奥で響いていた。

 

「店長、お疲れ様でした」店の扉を片手で開け放ち、こちらを振り返りながら優花が言った。「ああ、お疲れ。明日は定休日だから、ゆっくり休みなよ」

「はい、ありがとうございます」豆電球の光が散るような、寂しげな笑顔を見せた。「では、失礼します」

 カウンター越しに優花の背中を見送ると、僕は椅子に腰掛けた。時計の針は午後七時半を示していた。天井から吊り下がるペンダントライトが、黄色がかった光を部屋に投げかけている。

 あの女が店を出て行ってから、僕と優花は会話はほとんど交わさなかった。長い距離を泳いだ後のような疲労感が身体にこびり付き、重い空気が何層にもなって店の上に垂れこめていた。そして書類の整理や掃除をして、僕らは閉店の時間を迎えたのだった。

 僕は背中を丸めて俯いたまま、女の顔を思い浮かべていた。「またお伺いしますね」という女の言葉が頭の中で反響する。

 再び女が訪れたとき、僕はどう対応すればいいのだろう。まさかこの場で豚を解体して、皮を剥ぎ取り、毛や脂肪を取り除き、防腐剤を塗布して、花瓶の材料にするわけにはいかないだろう。毅然とした態度を取って断ればいいのは百も承知だが、なぜか彼女と話をしていると、いつの間にか掌の上で転がされてしまう。

 あれこれと考えを巡らせていると、ドアベルの音が鳴った。

「あ、すみません、本日はもう閉店で……」慌てて立ち上がると、縦長の段ボール箱を両手で抱えた女がいた。

「ごめんなさい、遅くなってしまって」女は軽く微笑みながら会釈をした。来店したときと同じ服を着用している。急ぎ足で来たのか、荒い呼吸をして、額に汗を滲ませていた。

「一体どうしたんですか」針を当てられたように胃が痛む。まさかこんなに早くやってくるとは、全く予期していなかった。

「花瓶の素材を持ってきたんです」抱えていた段ボール箱をカウンターに置いた。「なるべく新鮮な状態のものを届けたくて……」

 箱を目の前にして、僕の身体は張り切った弦のように硬直していた。

「花瓶の素材って……」

「ええ、豚の足です」充足感を顔一面に広げて、女が言った。

「そんな、まさか」

「生きた豚を直接持ってくるのはだめだと仰っていたので……これならいいですよね」

 女はそう言って、目で僕に箱を開けるよう促した。彼女の瞳には不思議な拘束力があった。こちらの抗う気を削ぐ、底知れぬ力が、彼女の双眸には宿っているように思えた。

 冬でも無いのに悪寒が走った。そのくせ首から上は熱を帯びて、びっしょりと汗をかいていた。

 箱からは微かに血の臭いがした。自分の指先を見ると、微かに震えている。何度か深呼吸をしてから、僕は意を決して段ボール箱を開けた。

 鉄臭い臭いが一段と濃くなった。口の中の唾液が粘着き、不快だった。箱の中を覗き込むと、詰め込まれた保冷剤が目に入った。淡い青色の保冷剤は丸を描くように並べられており、円の中心部分にはビニール袋に入った豚の足があった。足の断面からは骨や筋肉や神経の束が露出していた。だが、豚の足にしては太く、色も浅黒かった。不審に思って目を凝らすと、それはふくらはぎから下の辺りで断ち切られた人間の足だった。

「これは……」口をあんぐりと開けたまま、僕は言った。

「私のペットの豚の足ですよ」薄い唇を歪ませて、女は笑った。「少々手間取ってしまいました。切断自体はナタで一撃だったんです。もっと腕力が必要なのだと思っていたけど、案外簡単なんですね。ただ、飛び散った血の掃除と傷口の縫合が厄介で……」

「でも、これはどう見ても、人の足ではないですか……」箱と女の顔を見比べながら、絞り出すように声を発する。

「私の寵愛の下では、彼らは人間ではなく豚になるのです」女は慈悲深い笑みを浮かべていた。「当然、彼らは日常生活では人として暮らしています。ですが、私の家で飼われている間は、彼らはその呪縛から解き放たれます。野生に還り、豚として生活するのです」

 僕はその場で膝をつき、身体を折りたたんで吐瀉した。胃酸で溶けた昼食とコーヒーの混合物が床に広がる。腹部が激しく痙攣して、そのたびに反吐が出た。涙がどんどん溢れてきて、その雫が吐瀉物の上に落ちていった。

「あら大変、大丈夫ですか」女は平然とした口調で言い、スカートに手を入れた。「ハンカチをお貸ししましょうか」

 掌を立てて、女の提案を断った。酸っぱい唾を床に吐き捨てると、手の甲で口元を拭った。

「あなたは狂っている……」脳の奥が熱を帯びている。「まともじゃないですよ、人間を飼育するなんて」

「あの短い髪の女の子も、犬を飼っていると言っていたでしょう」女が箱の中の足をちらりと見た。「それが豚に代わっただけのことです。餌も与えますし、糞尿の処理もしますし、一緒に散歩もします」

「しかし、あなたのやっていることは犯罪だ。立派な逮捕監禁罪じゃないか」

「生き物を飼うことが犯罪なら、世界中のブリーダーは刑務所行きですよ」女は真正面から僕を見据えて、優しく語りかける。「それに、無理やり豚を飼っているわけではありません。彼らは自分たちを飼育してくれと、私に懇願してきたのです。自らの意志で私に飼われているのですから、監禁にはなり得ませんよね」

 羽虫が飛び立つような音がした。続いて窓ガラスをノックする水音。雨が降ってきたのだ。雨音は加速度的に強くなり、この部屋をすっぽりと包み込んだ。

「あら、雨が降るなんて天気予報では言っていなかったのに……」入り口の方をぼんやりと見ながら、女は自分の髪を撫で下ろした。そして急にこちらを振り返り、「この雨はしばらく止みそうにないですし……あなたの仕事ぶりを見学してもいいですか?」

「見学って、何を……」

「ですから、花瓶製作の過程を拝見したいのです」

「そ、それは無理です」焦りでいっぱいになった顔を凝固させたまま、僕は首を横に振った。

「作れないの?」部屋の空気が一瞬にして凍りついた。女の目が冷ややかな光を放つ。「腕には自信があるって話していたでしょう」

「でも、これは人間の足だから……」僕はもうほとんど泣きじゃくりたい気分だった。

「いいえ、豚の足です」女は俯いた僕の顔を、下から覗き込んだ。「もし作れなかったら、あなたを豚の餌にしますからね」

 雨脚はどんどん強くなり、絶え間なく窓を打つ雨音が、かえって部屋の静けさを際立たせていた。まるでこの部屋だけが世界から切り離されて浮かんでいるみたいだ。僕がこの箱庭から出られるのはいつになるのか。それは女と豚の足だけが知っているのだった。

 

<了>