ミライ

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「苦手な食べ物はない」と答えるより「食べ物全部好き」って言うほうが可愛いからそう言っているという話を聞いて、ハッとする思いだった。意味合いとしては同じなのに、後者のほうが耳障りが柔らかい気がして、良い言葉だなと感じた。全部の食べ物が好きなのは幸福なことだと思う。僕の場合は「ほとんどの食べ物が好き」と言える。「ほとんど」という副詞が付くのは、食べられないことはないけれど食指が動かないものがあるからで、それが酸っぱいものと過度に辛いものだ。例えば野菜の酢漬け、冷やし中華四川料理などで、僕の今後の人生で登場しなくても一向にかまわないような類のものだと断言できる。どうして好きではないのか問われると、前者が何となく胃液を連想するからで、後者は単純に痛いからである。

 人間の舌には味蕾という味を感じる器官があり、大人になるにつれて鈍感になっていく。何度も味わい、経験を重ねることで、子どもの頃は食べられなかった料理が美味だと感じられるようになる。苦くて不味いと思っていたコーヒーや魚の肝やビールが美味いと思えるのは(もちろん全員が美味しいと感じるわけではないけれど)、大人の舌の鈍感さと、積み重ねた経験によるものだ。こういった後天的に獲得していく味覚をアクワイアード・テイストと呼ぶらしい。

 子どもの頃の僕は酸味と辛味が平気だったのかと言えば、決してそんなことはなかった。冷やし中華の麺を渋い顔をしながら啜り、辛口のスナック菓子には極力手を付けない、そんな子どもだった気がする。親は僕の嗜好に口を出さない人だったから、僕もそれを治そうと奮起することはなく、僕の舌はそのまま大人になって酒の味を覚えたりしながら今に至る。だから二十七歳になった今でも、たまに会社の先輩と冷やし中華や辛いものを食べに行くと雨雲を飲み込んだような気持ちになる。幼少期と違うのは、そんな感情を顔に出さないようになったことぐらいだ。後天的に覚える味覚があるように、大人には後天的に学習する表情の作り方というのがある。そして会社帰りに酒を飲んでそういう感情や表情を綺麗に洗い流す。まるで禊のように。