ガムの夢

 神田直樹は夢を見ていた。船に揺られて大海を旅する夢だった。航海は順調だったが、次第に雲行きが怪しくなり、やがて雨が降り始めた。雨は油紙を破くよ うな音を立てながら船に降り注いだ。前方を見ると、巨大な波の壁がこちらに迫っていた。神田は急いで逃げようとしたが、高波が船を飲み込んだ。波が覆い被 さってくる瞬間、彼は目を覚ました。
「パパ、起きて。ピンポンって鳴ってるよ」
 娘に身体を揺さぶられて、神田は慌てて上体を起こした。自室のベッドで寝ていた彼は、寝ぼけ眼であたりを見回した。ベッドの側では小首を傾げながら、娘がこちらを見つめていた。
 インターホンが鳴った。その電子的な音は、寝起きで混乱した彼の頭に鋭く響いた。
「お母さんは?」額の汗を拭いながら、神田は訊いた。
「ママは、お昼ご飯を買いに行ってくるってさ」
 壁に掛かった時計を見ると、十一時を少し過ぎたところだった。おそらく近所のスーパーまで買い物に行ったのだろうと、彼は推測した。
 再びインターホンの音が響いた。宅配便が来たのだろうか。神田は娘の髪を撫でてから玄関に向かった。途中、リビングのテーブルを見ると、空き瓶と作りかけの船の模型があり、自分がボトルシップを作る途中で寝てしまったことを思い出した。
 玄関のドアを少しだけ開けると、スーツを着たセールスマン風の男が立っていた。外からの日差しが逆光線になり、その顔は判然としないが、人の良さそうな微笑みを唇の端に浮かべていた。
「突然の訪問すみません、わたくし製菓会社の者です。ご近所に挨拶回りをしておりまして……」
 鼓膜に絡みついてくるような口調で男は言った。そして黒い革の鞄を両手に持ったまま、深々とお辞儀をした。
「あの、何かのセールスですか? それなら結構ですので……」
 新聞か、もしくは宗教の勧誘だと思った神田は苦々しい顔で言い放った。
「いえ、決してそのような類の者ではございません。当社の新商品を、ぜひ試していただきたいのです」
「新商品?」
 男のねちっこい言い方に辟易しながら、神田は言った。
「はい、それがこちらの『いきいきガム』というものでして……」
 男は鞄から緑色のボトルとA4サイズの用紙を取り出し、自然な動作で神田の手にそれを握らせた。
「あの、僕はまだ受け取るとは言っていないのですが……」
 ボトルを返そうとする神田を無視して、男は柔和な笑みを浮かべた。
「現在キャンペーン中でして、こちらのガムを無料で提供しております。お手元の用紙に味やパッケージの感想などを記入してから郵送で応募していただくと、 裏面にございますAからEまでの賞品の中からお一つ交換できます。もし何か不都合がございましたら、お手数ですが用紙の下部に記載されております、電話番 号までご連絡ください」
 男は切れ目なく話すと、腰を直角に曲げてお辞儀をしてから足早に帰っていった。神田の手にはアンケート用紙とガムのボトルが握られていた。彼はしばらく男の背中を目で追っていたが、肩を落としてため息をつき、玄関のドアを閉めた。

「パパ、誰が来たの?」
 リビングのソファでテレビを見ていた娘が振り返り、神田に向かって言った。
「知らない人だった」
 神田は手に持っていたものをソファの前のテーブルに置いた。ふうん、と声を漏らした娘は好奇心を顔一面に広げながら、ガムのボトルを手に取った。
「ねえ、これなに?」
「ああ、これか……」神田はガムのボトルを一瞥した。「さっきの人からもらったんだ」
「知らない人から物をもらったらいけないんだよ、ママが言ってた」
「パパは大人だからいいの」
 神田は大きな欠伸をして、目元に浮かんだ涙を指で拭った。娘は少し不満気な顔をしたが、すぐにガムに視線を戻した。
「パパ、これ食べてもいい?」
「……ちょっと見せて」
 娘からボトルを受け取ると、神田はパッケージに目を凝らした。社名も商品名も、まるで耳馴染みがなかった。まだテレビなどで放送されてない、新しい会社のお菓子なのだろうかと、神田は首をひねった。
 神田の娘は五歳で、来年から小学校に入学する。お菓子は時々与えていたが、虫歯やアレルギーが心配で、そんなに数多くはあげていなかった。また、喉に詰まる危険性を考慮して、ガムは全く食べさせていなかった。
「ダメだ」
 薪を割るようなきっぱりとした口ぶりで、神田は言った。ガムのパッケージを見る限り、虫歯になったりアレルギーを引き起こすような成分は入っていなかったが、万が一ということもある。そもそも、見知らぬセールスマンからもらったガムを子どもに与えるなんて、言語道断だ。
「えー、パパのケチ」
 娘はそう言葉を漏らすと、リビングのソファに戻ってしまった。娘の後頭部のあたりに視線を向けながら、神田はテーブルの上にボトルを置いた。
 妙な来訪者に出くわしてしまったものだ。神田は頭を掻きながらキッチンに向かい、冷蔵庫の中を見た。水出しした麦茶のポットを取り出し、コップに注いで飲んだ。冷たい飲み物が胃に入ってくる感覚があり、空腹感が急に襲ってきた。
 とりあえずボトルシップを片付けなきゃな。そう思ってリビングに向かうとき、こちらに背を向けて立っている娘の姿が神田の目に入った。ゴム長靴を履いて泥の中を闊歩するような、粘り気のある音が聞こえた。
「こら、食べるなって言っただろう……」
 呆れながら娘の方へ近寄ると、神田の予想通り娘はガムを咀嚼していた。
「でもこれ、美味しいよ」
「全く……間違って飲み込んだりしないようにな」
 娘の反応からして、毒が混入していたり、味が不味かったりはしないようだ。ガムの甘みを堪能している娘の笑顔に心を和ませながらも、神田は少し違和感を覚えた。どこからか異音が聞こえてくるのだ。
 最初は、テレビが何かしらのノイズを出しているのかと思った。しかし耳を澄ませると、その音はどうやら娘の口のあたりから発せられているらしかった。そ れはくちゃくちゃというガムの音とは明らかに異質なものだった。娘がガムを噛むたびに、洞窟の奥深くに潜む獣の鳴き声のような、不気味な声が聞こえるの だ。
 それに、娘の表情も気になった。嬉々としてガムを食べていた娘だったが、しだいに眉をひそめるようになり、今では困惑がその顔に広がっていた。
「パパ……」
 もごもごと口を動かしながら、娘が呟いた。
「どうした? 変だと思ったら吐き出しちゃいなさい、ほら」
 神田はティッシュペーパーを広げて、娘の口元に近づけた。
「違うの」唇をすぼめながら、娘が言った。「出そうと思ってもね、ガムが……勝手に口の中で動くの……」

 神田は娘の言葉を聞いて、取り繕ったような笑顔を浮かべた。だが、神田の眉間にはシワが寄っていて、その微笑みは油の切れかかった機械のようにぎこちなかった。娘の戸惑った表情からは、人に嘘をついて揶揄しようという意志は全く感じられなかった。
「……口を開けてごらん」
 娘は言われたとおりに口を開いた。まだ乳歯の残る歯が、従順な兵隊のように綺麗に並び、小さな舌が見えた。そして右下の奥歯のあたりにガムがあり、それは確かに動いていた。
 ガムは五百円玉硬貨ほどの大きさで、ドリアンの果肉のような白っぽい色をしていた。パスタの一種であるラビオリに似ていると神田は思った。ガムは所々に歯型が付いており、その跡がラビオリのギザギザした部分を想起させるのだ。
 ガムはのろのろと口の中を這いまわり、その動きはナメクジを想起させた。そう感じた瞬間、神田の心に怒りの炎が灯った。娘の口内にそんな汚らわしいものが存在することに、憤りを覚えたのだ。
 娘に上を向かせて、神田は右手の親指と人差指を娘の口に突っ込んだ。ガムを摘み出すと、それをリビングの照明の光にかざしてみた。
「なんだこれは……」
 ガムは唾液で濡れてぬらぬらと光っていた。神田の指の中でそれは身をよじり、かかとで踏み潰されたカエルのような声を出していた。
「変わったお菓子だね」娘は感心したように言った。「うねうね動いてるし、なんだか生き物みたい」
 神田はガムをティッシュに包み、ゴミ箱に捨てた。そして口の中を濯いでくるよう、娘に言った。ゴミ箱をちらりと見てから、娘は洗面台へ小走りで向かった。
 ガムを差し出してきたセールスマン風の男を、神田は憎んだ。ガムのボトルを手に取り、そこに書かれた会社の電話番号に目をやった。あのガムを噛んだことで娘が病気になったら、どうするつもりだろうか。
 クレームを入れてやろうと思い、神田は受話器を手に取った。そして製菓会社に電話をかけようとしたとき、娘が短い悲鳴を上げた。
「ねえ、パパ……」
 口の中を洗ってきた娘が、ゴミ箱の方を指差した。目をやると、丸めたティッシュ――さっきガムを包んだもの――がゴミ箱の側に転がっており、それが動い ていた。風に揺られるような自然な動作ではなく、見えない糸で引っ張られているみたいな、強い力で引きつけられていく進み方だった。
 ガムは神田には見向きもせず、娘の方へ真っ直ぐに向かっていた。神田は肌が粟立つ思いだった。仕組みは分からないが、どうやらこのガムは、噛んだ人に付いていく習性があるらしい。
 受話器を置いた神田は、ティッシュの衣をまとったガムを指で拾い上げた。こいつの動きを止めるにはどうすればいいのだろうか。ガムは瀕死の鶏のような声を出して暴れていた。娘は好奇心と戸惑いの間で立ち往生したような表情で、それを見つめていた。
 何か重たいもので潰して、動きを止めてしまおう。そう考えた神田は、部屋の中を歩きまわり、重量感のあるものを探した。そしてリビングのソファに目をつ けた。急いで歩み寄ると、ソファの端を片手でぐっと持ち上げた。ソファの足の形に合わせて、床には薄っすらとホコリが付着していた。ホコリの中心にガムを 置き、それが動き出す前にソファを降ろした。ぶちぶちと繊維が千切れるような音がして、ガムは耳障りな悲鳴を上げた。
 神田はソファの端に両手を置いて、何度か体重をかけた。力を加えるたびに声が小さくなり、三分ほど経つと静かになった。ひとまずこれで動かなくなるだろう。ほっと一息をついた神田だったが、ソファが不自然な音を立て始めて、緊張が電流のように全身を走った。
 ガムは床とソファの足の隙間から、じりじりと這い出ていた。音階の狂った声を上げながら、ガムはほふく前進をするように抜けだすと、細かく身体を震わせた。神田が呆然としていると、ガムはティッシュの切れ端や埃をその身にくっつけたまま、娘の方に近づいていった。
 神田は再びティッシュを手に取り、ガムを捕まえた。彼は手元をじっと見つめながら、このガムは生きていると確信した。どういう訳か知らないが、このガムは意志を持って動いている。そしておそらく、何とかして殺さない限り、ずっと娘の方へ向かっていく……。
 神田はキッチンへ行き、丸テーブルの上のミキサーに目をやった。妻が毎朝野菜や果物を入れて、手作りのジュースを作るのに使うミキサーだ。
 震える手で電源プラグをコンセントに差し込み、ミキサーの中にガムを放り込んだ。そして蓋を押さえながらスイッチを入れた。チタン製の刃が回転して、威 嚇する猿のような叫び声がミキサーの中で響き渡り、ガムは散り散りになった。娘はリビングの壁を背にして、神田を遠巻きに見守っていた。
 二、三分の間、神田はミキサーの蓋を押さえたまま、刃の回転するミキサーを見つめていた。ガラス製のミキサーの中で、ガムは千切れてバラバラになり、無残な姿を晒していた。
 ここまですれば大丈夫だろうと思い、神田はスイッチを切った。飛び散ったガムの一部はミキサーの壁に張り付き、また別の部分は刃にべったりとこびり付い ていた。しばらくすると、細切れになったガム同士がくっつき始めた。隣り合った水滴が一つになるように、ガムは互いに引かれ合い、その塊は大きくなって いった。
 神田の口が開かれて、喉の奥で潰したようなうめき声が出た。それぞれが独立した生き物であるかのようにガムは動き、やがて元のガムに戻ると、再び鳴き始めた。
 唇を舌先で潤し、神田はキッチンの引き出しからフォークを取り出した。ミキサーの蓋を開けると、ガムがミキサーの壁をよじ登っていた。身体をくねらせながら進むガム目掛けて、神田はフォークを突き差した。ぶぎゅうという甲高い声を発して、ガムはその身を波立たせた。
 神田はガスコンロのスイッチを入れて、強火に調整した。そして躊躇うこと無く、フォークの先を火に当ててガムを炙った。ガムは一際高い声を上げながら身をよじった。
 焦げたメロンのような臭いを発しながら、ガムは身体から白煙を上げていた。その様子を眺めていると、神田の心に嗜虐的な喜びが沸き上がってきた。子どもの頃に味わった、公園のアリを一匹ずつ指で潰すときに感じる、あの純粋無垢な喜びだ。
「パパ、大丈夫?」
 背後から娘の声を浴びて、神田は我に返った。フォークを握る手が汗ばみ、微かに震えていた。自分がいつの間にか残忍な顔をしていることに気づき、神田は自身の豹変ぶりを恐ろしく感じた。
「ああ、大丈夫だよ」平静を装った声色で神田は言った。
「なにか手伝うことある?」
「いや、パパがやるよ」
 彼はフォークの先を火に突っ込んだまま、ありがとうねと娘に言った。そして口の中に違和感がないか尋ねた。
「何とも無いよ。でも、もうガムはいらない……」
 そう言い残して、娘はリビングに戻ってしまった。神田は炙っていたガムに視線を戻した。フォークの先端では変色したガムが、もう何の声も発しないまま、ぶすぶすと煙を上げていた。
 神田はコンロの火を止めて、深いため息をついた。ガムを殺した愉悦感や、己の行動の滑稽さを自嘲する気持ちなど、様々な感情が心の中で渦巻いていた。
 彼は流し台にガムを差したフォークを置き、洗面台に向かった。冷水で顔を洗うと、煮え立った湯のように昂っていた気持ちが落ち着いてきた。神田は鏡に映 る自分の顔を見た。両目が落ちくぼみ、頬は血の気が失せ、まるでコールタールを飲み込んでしまったみたいだ。ガムと格闘したことで、疲労の毒が身体に回 り、神田の体力を奪っているらしかった。
 キッチンに戻ってきた神田の耳が、気になる音を捉えた。金属同士がぶつかり合うようなその音は、流し台の方から聞こえた。
 神田の心臓が早鐘を打った。流し台を覗きこんでみると、フォークが小刻みに動いていた。しかし実際に動いていたのは、フォークではなくガムだった。初め は細かく震えていたガムだったが、その動きはだんだん激しさを増し、子どもが駄々をこねて左右に身体を揺するような大きなものになった。そしてフォークの 針から抜けだして、身体に穴を空けたまま、ステンレスの壁をよじ登ってきた。
 神田の視界がぐらりと揺れた。粗悪な酒を飲み過ぎて、酩酊しているような気分だった。ガムに対する絶望感や嫌悪感がごちゃ混ぜになり、彼の全身をどっぷ りと浸した。悪い夢ならば早く覚めてくれと切に願った。だが、毛虫のように流し台を這って行くガムの、呪詛にも似たうめき声は、ここが現実であることを はっきりと告げていた。
 神田はちらりと娘に視線を向けた。彼女は父親と流し台を交互に見ているが、その顔には不安の雲がかかっていた。神田はかぶりを振って、自身を奮い立たせた。娘に危害が加わるような事態は、絶対に忌避しなければならなかった。
 ガムの動きを止めるにはどうすればいいだろうか。頬を伝い落ちる汗を手の甲で拭い、神田は考えを巡らせた。そしてふいにボトルシップの瓶を思い出した。
 神田はガムを直に掴むと、羽をもがれたまま飛び立とうとする鳥のような足取りでリビングに向かった。指先にあるガムは耳たぶのような柔らさかだった。親指と人差し指で潰すと、絡まった糸が引きちぎれるような感触があり、神田の背中に嫌悪感が走った。
 テーブルの上の瓶にガムを放り入れると、神田は渾身の力を込めながら、コルクの栓で蓋をした。ガラス製のボトルの中で、ガムは地底から沸いてくるような くぐもった声を上げていた。しばらくの間ガムは蠢いていたが、その動きはだんだん緩慢になり、ぶるりと大きく痙攣したかと思うと、完全に動きを止めた。
「やった……」
 呟くように言うと、神田は大きく胸を撫で下ろした。容器を軽く振ってみたが、ガムは瓶の底にへばり付いたまま微動だにしなかった。瓶の中の酸素が無くなって、窒息したのだろうと、彼は推測した。
 安堵感に心を満たされていた神田だったが、残りのガムのことを思い出し、慌てて大きめの空の瓶を用意した。そしてテーブルにあったガムのボトルの中身を、全て瓶の中に流し入れて、固く栓をした。
 ガムの詰まったボトルをテーブルに置いた瞬間、瓶がかたかたと震え始めた。大きな地震が来る前の初期微動に似た震えだった。目を凝らしてみると、瓶の中 のガム一つ一つが、それぞれ別々の動きをしていた。身体を大きくよじるものや、寒さで震える手先のように痙攣するものもいた。ガムの動きは次第に大きくな り、まるで互いに共鳴するかのように、全てのガムが悲鳴を上げながら震えていた。テーブルが音を立てて揺れて、船の模型やピンセットやテレビのリモコンが 床に落ちた。ガムの鳴き声は絡まり合いながら瓶の中で反響し、危険を告げるサイレンのような巨大な音の束になった。音量はさほど大きくないが、鼓膜を直接 引っ掻くような鋭さがあり、神田は頬をひきつらせた。
 二分ほど経つと、震えや叫び声は小さくなって、ガムは動かなくなった。圧倒的な静寂が、リビングを重々しく満たしていた。

 神田はガムの入ったボトルを二つ、キッチンの丸テーブルに置いた。そしてゴミ袋を手に取り、しばらく逡巡したあと、袋を元に戻した。本当は今すぐにでも捨ててしまいたかったが、何かの証拠になるかもしれないと思い直し、取っておくことにしたのだ。
「もう大丈夫なの?」眉を下げて、不安感を語尾に滲ませながら娘が訊いた。
「ああ、もう動かなくなったし、平気だよ」
 神田はガムの入った瓶に視線を送った。娘はボトルをしげしげと眺め、野犬の群れから逃げ切ったうさぎのような表情を浮かべた。
 空のガムのボトルを手にすると、神田はガムを製造した会社に電話をした。しかし電話は繋繋がらず、この電話番号は使われていないという機械的なアナウンスが繰り返されるだけだった。神田は心の中で舌打ちをして、受話器を置いた。
 警察に連絡をしようかと思ったが、神田は思いとどまった。娘の噛んでいたガムが突然動き出して襲ってきたなんて話は、信じてもらえるわけがないだろう。質の悪いイタズラ
か、狂人の戯言だと一蹴されてしまうのが関の山だ。
 神田は膝を折ってしゃがみ、娘の目を見た。
「このガムのこと、誰にも言っちゃダメだぞ」優しく諭すような口調で、神田が言った。
「どうして?」小首を傾げながら娘が尋ねた。
「ガムが動いたなんて言ったら、みんなびっくりしちゃうだろ? だからこれは、パパと二人だけの秘密だ」
「分かった。じゃあ、指切りね」
 互いの小指を引っ掛けて、二人は指切りをした。そして、知らない人からもらった物を食べたらダメだよ、と神田は言った。パパもだよ、と間髪入れずに娘が言って、神田は思わず笑い声を漏らした。
 玄関のドアが開く音がした。スーパーの袋を片手に持った妻が帰宅して、ただいまと言った。
「お帰り」神田が両膝に手を置いて立ち上がって言った。
「あら、起きてたの。いつもお昼まで寝てるのに」飄々とした口調で妻が言った。「……どうしたの、にこにこして」
「ちょっと遊んでたんだよ」神田は娘に意味ありげな目配せをした。
「ねー」娘は白い歯を見せて、笑顔で頷いた。
 ふうん、と二人を交互に見つつ、妻はキッチンへ向かい、丸テーブルに荷物を置いた。
「とりあえず昼食にするから、片付けておいてね」
 そう言ってリビングのテーブルを指差した。神田は首の後ろを掻くと、散らかった船の模型の部品やピンセットや瓶を両手に抱えて、自室に戻った。娘はソファに座り、脚をぶらぶらと揺らしながらテレビを見始めた。
 神田の妻は洗面台で手を洗うと、昼食の支度に取り掛かろうとした。材料の入ったビニール袋の中身を取り出そうとしたとき、ふとテーブルに置かれた瓶を見つけた。
「何これ?」
 大量のガムが入ったボトルを掴むと、妻はコルク栓に手を掛けた。声を聞いた娘が振り向き、妻の手元にあるガムを見て、静止させようと慌てて口を開いた。しかし、娘の口が否定の形を作った直後、コルクの栓がぽんと小気味良い音を立てて開いた。
 部屋からリビングに戻ってきた神田は、娘に目をやって訝しんだ。酸素欠乏症に掛かった金魚のように口を開けて、顔の筋肉をこわばらせていた。娘の視線の先を辿ると、妻が蓋の開いた瓶を持っているのに気づいた。
 神田は悲鳴に近い声を上げて、妻の元に駆け寄った。妻の手からボトルを奪おうと腕を伸ばした瞬間、驚いた妻が手から瓶を滑り落とした。瓶は粉々に砕けて、その破片と共にガムがフローリングの床に散らばった。そしてガムの一つがかたりと音を立てた瞬間、全てのガムが一斉に神田の方を向いた。本当の悪夢はこれから始まるのかもしれないと、神田は思った。