【短編小説】『井の中の蛙』

 耳障りな低音に目を覚ますと、私は暗闇の中にいた。中に泥を流し込まれたように頭が重く、倦怠感が皮膚にべったりと張り付いていた。自分の置かれた状況を確かめるため、私は大きく息を吸い込んで声を出してみた。風船を擦り合わせたような音が周囲に響き、私は少しだけ落ち着きを取り戻した。
 ゆっくりと辺りを見回したが、光源が無いためか何も見えなかった。しかし、自分が異様な空間に置かれていることは火を見るよりも明らかだった。足にぬめりと絡みつく液体からは救いがたい臭いが発せられていたし、フル稼働する工場の中のような騒音が、絶えず耳朶を打っていたからだ。
 工場という言葉が脳裏に浮かんだ瞬間、私は平衡感覚を失い、頭を抱えて蹲った。まるで誰かに脳を撹拌されているように、目の前の景色が真っ白に染め上げられていった。そして、白昼夢のような昨夜の記憶のスクリーンが、徐々に焦点を結び始めるのだった。

***

 三日三晩、私は何も食べていなかった。私の住んでいる地域は知事の独断により、都市開発が急に進められてしまった。反対する者はもちろんいたが、軍によって強制的に土地を追われ、やがて食糧難に喘ぐようになった。そして私も住む場所を失った一員だった。
 人々が寝静まった夜、亡者のように彷徨っていた私は一棟の施設の前にいた。それは古ぼけた食肉処理場だった。どうして自分がそこにいるのか上手く思い出せなかったが、飢餓により意識が朦朧としていた私は、藁にもすがる思いで建物に入ってみることにした。
 正面の鉄扉は固く施錠されていたが、裏にある通風口から侵入することができた。昼間の騒々しさとは異なり、建物の中は空気がガラスになったように静かだった。天井と壁は白に、床はモスグリーンに塗られていた。取り付けられた空調からは冷風が排出されており、温度を均一に保っていた。部屋の中にはステンレス製の設備が整然と並んでいて、西側に一際大きな卵型の貯蔵庫があった。私はそこにたくさんの肉が詰め込まれているのだろうと確信した。ある程度洗い流されてはいるが、壁や機械には血と脂肪が残っており、その匂いが胃の腑をぎゅっと絞り上げ、私は息苦しさを覚えた。
 建物の上部に取り付けられた窓からは、柔らかな月の光が差し込んでいた。その光を受けてキラキラと輝く貯蔵庫へ、私はいかりを失った船のように近づいていった。貯蔵庫の中を見ると、結着剤で固められた屑肉がぎっしりと入っていた。濃厚な肉の香りにむせ返った瞬間、私の身体は一瞬ふわりと宙に浮き、貯蔵庫の中へ落下してしまった。慌ててもがいてみたが、身体は泥に飲まれるように肉の中へ沈んでいった。空腹で衰弱していた私の視界は次第に暗転し、ナイフで断ち切られたように意識を失った。

***

 水底から掬い上げられるように、再び私の意識が浮上してきた。同時に、私の中に予感の影が生まれた。影は私の不安を吸い込むとゴム毬のように膨らみ、喉のすぐ下まで押し上がってきて、そっと囁くのだ。終始鳴り響く大太鼓のような低音……皮膚をねっとりと濡らす液体……熱帯のジャングルを思わせる空気……ほら、お前もここが何処なのか、もう分かっているのだろう、と。
 森の木々が吐き出す霧に似た焦燥が私を包み込んだ。同時に、熱い火箸を当てられたような痛みが身体を走った。叫ぶつもりは無かったのに、叫んでいた。しかし、どんなに声を張り上げても、周囲の暗闇が瞬く間に音を飲み込んでしまった。影は私の体内だけでなく、周囲の景色も黒く塗り潰してしまっていた。夜よりも濃い闇の中で、私は自分の身体が蝋のように溶けていくのを感じた。そして、ごうんごうんという雑音に混じり、春の訪れを告げるようなチャイムの音が聞こえているのを、薄れ行く意識の中で感じた。

***

 終業ベルの音と共に、喧騒が教室を揺らした。友人との遊びや部活動など、各々の目的のために生徒たちが廊下へ吐き出されていった。そんな中、一人の男子生徒が苦々しい表情でゆっくりと席を立った。そして彼の友人と思わしき男子生徒が近づき、声をかけた。
「お前どうしたんだ、午後の授業、ずっと寝ていただろ」
「ああ、何だか腹の調子が悪くてな……」
「どうせ食べ過ぎだろ? コンビニの肉まんを三つも食べるからだよ」
「そうかもな。俺、早食いだからさ、たまにこうなるんだよね」
「全く気をつけろよ……あと、授業中にお腹を鳴らすのは恥ずかしいぞ」
「仕方ないだろ、俺だってあんな大きな音が出るとは思わなかったんだから」
「しかし、お腹が鳴ったときの音って普通はグーだろ。ゲロゲロって、まるでカエルみたいな音だったぜ」


<了>