豚飼

「暇だなぁ……」

 頬杖をつきながら、平櫛優花が呟いた。彼女は小さな欠伸を一つして、それから上体を後ろに反らしながら伸びをした。座っていた木製の椅子がギシギシと音を立てて、ミディアムボブの髪が揺れた。

「私、コーヒー淹れますけど、店長も飲みますか?」椅子から立ち上がって、彼女は言った。

「ありがとう、貰うよ」作業していた手を止めて、僕は答えた。掛時計に目をやると、午後三時を少し過ぎたところだった。

 風のない日の湖の底のような、穏やかな時間の流れ。今日も普段と変わらずに、客足は疎らだった。午前中に机の修理の依頼が一件あり、昼過ぎにカップルらしい二人組が来店しただけだ。

 修理の申し入れがあった机は、四脚を馬の大腿骨で支えるダイニングテーブルだ。依頼内容は、机のがたつきと塗膜の剥がれを直して欲しいという簡単なものだった。脚の長さの調整は既に終えているので、あとは塗装を施せば修理は完了だ。

 昼過ぎに訪れたカップルは、どうやらお揃いの品を求めて来たらしい。サメの歯を用いたピアスや、羊の革が使われたブックカバーなどを手に取り、真剣な目で品定めをしていた。やがてヒグマの爪をあしらったネックレスを二つ購入して、朗らかな笑顔で店を出て行った。

「今日もあんまり来なかったですね、お客さん」優花は慣れた手つきでコーヒー粉や水を用意し、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。

「そうだね……」あくびを噛み殺しながら、僕は言った。

 椅子に座ったまま、辺りをさっと見渡す。十二畳ほどの広さの店内には、僕が制作した家具や装飾品、雑貨の数々が陳列されている。ウサギの毛皮をなめした手袋――牛の皮を張った太鼓――柄の部分に鹿の角が使われたナイフ――柔らかな触感が特徴的な子ヤギの革の財布――この店で売られている品々は、動物の骨や皮などが使われている一点ものばかりだ。

「はい、どうぞ」優花がコーヒーの注がれたコップをこちらに手渡した。「店長、やっぱりこの店の外観、何とかしましょうよ」

「何とかって、例えばどうするの」熱いコーヒーに息を吹きかけながら尋ねた。

「もう少し人が入りやすい雰囲気にして……」

「いいんだ、うちは隠れ家的な佇まいが売りなんだから」唇を突き出すようにして、コーヒーを啜る。胃の腑に熱い液体が落ちる感覚。コーヒーから立ち上る湯気と共に、眠気が薄れていく。

「それにしたって、こんな店構えじゃ来る人も来ませんよ」優花が店の入口に視線を向ける。「ただでさえ、ここは人通りが少ないのに……」

 この店は国道から一本外れた路地にある、いわゆるインテリアショップだ。周辺はひっそりとした住宅地で、優花の言うとおり人の往来は乏しい。

 加えて、店の窓は全て磨りガラスで、外から店内の様子を窺うことはできない。店名の横に「インテリアショップ」と書かれた看板を置いたり、季節の花を店先に飾ったりしているが(これは優花のアイディアだ)、一見した限りでは、美術作品のギャラリーか、小料理屋を想起させる見た目になっている。

 また、店の入り口付近には巨大なケヤキの木が立っている。店のシンボル的な役割を担っているこの大木だが(店名もケヤキの英語表記から取って「ゼルコバ」にした)、繁茂した葉が影を落としていて、どこか陰鬱な雰囲気を店に与えている。余程の好奇心を持ち合わせていない限り、容易に足を踏み入れようとは思わないだろう。優花がこの店の造作を気にかけるのも、当然である。

「うちはあくまで趣味でやってる店だし……」こめかみの辺りを掻きながら応える。「それに、この店は扱ってるものが特殊だからね。こんな風に排他的な趣にしたのも、ひっそりと営業したかったからなんだ」

「店長がそう言うなら、良いですけど……」絵の具を溶いたような色のコーヒーを見つめたまま、優花が呟いた。「個人的には、店長の作ったものがもっと広まって欲しいなって思います。もったいないですよ」

 優花は去年の春頃からゼルコバで働いている女子大生だ。大学合格を機に地方から上京してきて、この街で一人暮らしをしている。住んでいるアパートの近所にあるこの店を偶然発見し、並んでいる商品を見て一目惚れしたらしい。翌日には履歴書を持参して、真剣な目で僕にアルバイトの申し出をしてきた。自分一人で切り盛りできる程度の手狭な店なので、最初は断るつもりでいたが、彼女の熱意に気圧されてしまい、気がついた時には雇い主になっていた。

「買いかぶり過ぎだよ」これは謙遜ではなく本心からの言葉である。「でも、そうだな……店先の草むしりぐらいは、そろそろ取り掛からないといけないかもね」

 優花の口が何か言葉を発するために動き始めていたが、その声はドアベルの軽やかな音によって遮られてしまった。

 

「いらっしゃいませ」コーヒーが半分ほど残るカップをカウンターに置いて、優花が声をかけた。

 入店したのは大人っぽい雰囲気の女性だった。白のブラウスにネイビーのフレアスカート姿で、黒髪をふんわりとカールさせている。彼女は僕ら二人に向けて軽く会釈し、その場でしばらく店内を見回していた。空気中に漂う酸素を目で追うような、不思議な視線の向け方だった。やがて彼女はこちらに向かって歩を進めて、カウンター越しに声をかけてきた。

「すみません。こちらの店では、オーダーメイドは可能ですか?」桜の花がぱっと咲くような、柔らかな声だった。

「ええ、できますよ」優花が目尻を下げて笑った。「どのような品をご所望ですか?」

「花瓶を作って欲しいんです」

「花瓶ですか……」僕は顎に手を当てて思案した。うちで扱っている花瓶は、牛革のラベルとガラス瓶を組み合わせたような、簡単なものしかない。だが、客の要望にできるだけ応えるのが、職業上の僕のポリシーである。「デザインや材料にも寄りますが、一週間ほどで制作できますよ」

「そうですか、良かった」女性は安堵した様子で言った。

 店の中央には丸テーブルが設えてあり、二人がけのソファがテーブルを挟むように、対面式で置かれている。そのうちの一つに座るよう彼女を促し、僕らも向かいのソファに腰掛けた。

「その、材料についてなんですが……」女はやや目を伏せたまま言った。「私の家で飼ってる、ペットの足を使って欲しいんです」

「ペット?」優花が調子はずれな声を出した。「ええと、ご自身で飼われているペットを素材に、花瓶を作るということですか」

「ええ、そうです」はっきりとした口調で、女は言った。「お願いできますか?」

 僕と優花は顔を見合わせた。女の口ぶりからは戯けているような様子は感じられない。

「ちなみに、何の動物を飼われているんですか」女の頼みを一旦保留にして、僕は尋ねた。

「豚です」女は温和な笑顔をたたえていた。「体重九十キロほどの、若い豚なんです。私の家では、豚を数匹飼育していまして……」

 見かけによらず、畜産農家なのだろうか。彼女がスコップを使って豚の糞の掃除する姿を想像してみたが、どこかチグハグな印象を受ける。

「あと、花瓶のデザインは、こういう風なものをイメージしていまして……」スカートのポケットから写真を一枚取り出して、こちらに差し出した。

「これは……熊ですか?」

「そうです、私の祖父が作ったものでして……幼い頃から眺めていた、お気に入りの作品なんです」

 写真には熊の足でできた花瓶が写っていた。花瓶の大きさは縦横十五センチほどで、骨や肉などは綺麗に取り除かれている。艶のある体毛が茂り、尖った爪が地を支えていた。

「なるほど……」両手を何度か擦り合わせてから、僕は女の目を見た。「花瓶の件ですが、技術的には可能です。豚の革は、国内ではわりとポピュラーな材料ですし、手前味噌ですが、防腐処理の腕には自信があります」

「本当ですか」純真無垢な少女のようなほほ笑みを投げかけられて、僕ははっとした。だが、心の中でかぶりを振る。

「ただ、生きている動物を扱うことは、我々にはできません」心持ち語調を強めて言った。

「それは、どうしてですか」きょとんとした表情で、女は言葉を紡いだ。

「え?」我ながら間抜けな声が出た。

「どうして、生きている動物を商品に使ってはいけないの」

「それは、当たり前ですよ」確か、動物の生命を尊重する法律があったはずだ。「無闇に生物を傷つけたり、殺してはいけないのです」

「ふぅん……」女は心底不思議そうな表情を浮かべた。「それじゃあ、例えば一匹の蚊が目の前を飛んでいて、その蚊を手で叩いて殺しても、私は罪に問われるのですか」

 僕をからかっているのだろうか。内心で疑問に思いながら、僕は上唇を舌の先で湿らせた。

「虫はいいんですよ、殺しても。生類憐れみの令なんて、もう何百年も前の法令だ……」

「どうして虫は良くて、私のペットの豚はだめなのかしら」

 まるで低学年の子どもを相手に話しているみたいだ。僕は短く息を吐き、「そもそも、お客様は豚を愛玩動物として飼われているんですよね。大切なペットに危害を加えるなんて、許されるはずがありません。それこそ、虐待になってしまう」

「……小学校三年生の夏休みにね、私、カブトムシを飼っていたんです」

 女が乱暴な運転でハンドルを切り、話の流れを変えてきた。

「カブトムシ、ですか」狼狽を悟られないように注意して、女の話に合わせる。

「そう、地元の裏山にクヌギが林立していて、たくさん採れたんですよ。ちょうど使ってないプラスチックのケースが自宅にあったから、一匹捕まえて飼育していたの。ケースに敷き詰めた土にオガクズを撒いて、餌は毎日やって、湿度や温度に注意を払って……だけど、ある日うっかり蓋を開けっ放しにしていて、カブトムシが逃げ出したの。空っぽのケースを見て、慌てて部屋の中を探したわ」

 話の着地点が読めなくて、焦燥感が肌の表面を撫でていく。

「それで、カブトムシはどこにいたんですか」

「部屋で私が広げていた新聞紙――気になった新聞の記事を切り抜いて集めるのが趣味だったの――の下に隠れていたんです。私、それに気づかないで、うっかり踏みつぶしてしまったの。足の裏に嫌な感触があって、痰に似た黄色い汁が紙に広がっていった。新聞紙を持ち上げたら、ぐちゃぐちゃの内臓を晒したカブトムシがいて……」

 ほんの少し間を置いてから、女は僕の顔を見据えて言った。「でも、私は警察に連れて行かれたりはしなかったわ。大切に飼育していた生き物を、殺してしまったのに」

 女の意図がやっと汲み取れた。愛情を注いで育てた虫と豚、どちらの生命も同価値だと言いたいのだろう。そして、飼育している豚を傷つけたとしても、それは罪にはならないと表明しているのだ。

 だが、女の主張を理解した瞬間、僕は二の句が継げなくなっていた。虫の命と豚の命が、等号で結ばれるわけがない……そんな数式が成立しないことぐらい、誰にでもわかる自明の理だ。きっと彼女の論理には綻びがあるはずだ。

「それは、故意ではなかったからですよ」浅い呼吸のまま、僕は言った。「あなたに殺意がないのだから、罪に問われることもないですし……」

「あら、じゃあ過失致死傷罪はどうなるんですか」間髪入れずに女は答えた。「交通事故などでよくあるでしょう。明確な殺意が無くても、人を殺してしまったのなら、刑事罰に問われることもあるわ」

「でも、虫と人間は違います。両者の命の重さが、同じはずがない……」

「そう思い込んでいるだけなのです」女は優しく諭すような声色で言った。「命の重さは平等です。虫も、豚も、人間も……どんな生物であろうと、関係はありません」

 空き巣に荒らされた部屋のように、頭の中が混迷を極めてきた。会話の主導権がいつ、女の手に渡ってしまったのだろう。今までの話の流れを遡ろうとするが、真っ直ぐな女の視線がこちらを射抜き、僕の脳は石化したみたいにこわばってしまう。

「あの、お客様」渡りに船だった。優花は少しばかり身を乗り出して、落ち着いた口調で言った。「お客様は、ご自分のペットの豚の足を、花瓶にしたいということでしたよね」

「ええ、そうですよ」女が優花の方へ向き直り、会話を進める。

「そもそも、どうして花瓶なのでしょう」

「飼ってる豚が今朝、私に花をプレゼントしてくれたからです」事も無げに女は言った。

「……豚がですか?」

「今朝、ペットの豚と一緒に近所を散歩していたんです。彼の首輪から伸びる、リードを引きながらね」女の声色が、心なしか熱っぽくなる。「のんびりと歩いていたら、コンクリートの地面の亀裂から、真っ白なコスモスが咲いているのを、彼が発見したんです。彼はしきりに鼻を鳴らして、コスモスの場所を私に知らせてくれました。私が花を摘み取ると、今度は豚がしきりに己の後ろ足を差し出すのです。『どうしたの、話してごらん』と呼びかけると、この後ろ足を花瓶にして、花を生けて欲しいと、目と声で訴えてきたのです。あまりの愛くるしさに、私は彼の頭を何度も撫でて、鼻にキスをしました」

 ちらりと優花の表情を窺うと、訝しむような目つきで女を見ていた。しばらく陶酔状態だった女も、急に我に返り、「すみません、つい興奮してしまって……」と言った。

「いえいえ、いいんですよ」優花の頬には引きつった笑みが貼り付けられていた。「失礼ですが、お客様には、良心の呵責はないんでしょうか」

「それは……私がペットの豚の足を花瓶にすることに対して、ですか?」一語一語を噛みしめるように、女は言った。

「ええ」優花は深く頷いた。「私は実家で犬を飼っていますが……もしあの子が誰かに傷つけられたらと思うと、心が痛みます。自分のペットが酷い目に遭って、悲しいと感じるのは、飼い主として当然だと私は思うのです」

 優花の口ぶりには、憤りの色が微かに滲んでいた。表面的には笑みを浮かべているが、湧き上がる気持ちを押し殺そうと努力しているのが伝わる。

「私、庭で家庭菜園をしているんです」優花の口調とは対照的な、場違いなほど平坦な言い方だった。「毎朝庭で採れた野菜でジュースを作っているの。チンゲンサイにニンジン、セロリをジューサーに放り込んで、それに皮付きのリンゴも入れて混ぜると、とても美味しいジュースができるんですよ」

「あの、それが何か……」眉間に苛立ちのしわを寄せて、優花が言った。

「自分の育てている野菜をミキサーで粉々にしても、私、ちっとも心が痛みまないわ」女の表情からは、何の感情も読み取れない。「野菜も生きているのにね」

「動物と植物は、違います」膝の上に置いた手を握りしめたまま、優花は言った。

「どうしてそこに差異が生じるのかしら」

「植物には痛覚がないでしょう。動物は傷つけれたら痛みを感じるし、苦しみます。そんなの可哀想じゃないですか」

「それなら、魚の活造りを作る料理人は、全員畜生になりますよ」会話の内容にそぐわない、女の柔和な声。「それとも、あなたはデパートで切り身の魚を見かけるたびに涙するの?」

「魚は、食用だからいいんです」

「なんですか、それ」女の声には嘲りの色が浮かんでいる。「食用か否かの基準なんて、一体誰が定めたんですか」

「そんなの、常識的に考えればわかることです」突っぱねるような口調で、優花が言った。

「じゃあ、牛はどうですか」

「もちろん食用ですよ」

「鳥は?」

「食用です」

「豚は?」

「豚は……」食用です、と言いかけた口を慌てて閉ざしたらしい。優花は小さな咳払いをした。「家畜の豚は食用です。それ以外の用途で育てられた豚は食用ではありません」

「じゃあ熊は?」

「熊肉の缶詰がありますし、食用ですよ」

「カエルは?」

「食用のカエルがいるはずです。脚の部分を食べると聞いたことがありますね。私は遠慮したいですが……」

「猫は?」

「食べませんよ、当たり前です」

「犬は?」

「食べるわけないじゃないですか」

「犬食文化ってご存じですか?」

「え?」不随意的に喉から漏れ出た声。

アジア諸国では、今でも犬の肉が食べられているんですよ」顔にかかった黒髪を、女がかき上げる。「市場では犬肉が売られているし、犬肉専門の店が並ぶ通りだってあるんです」

「犬を食べるなんて、野蛮人がやることです」断言するように優花が言った。「そんな文化は理解できません……それに、私には無関係です」

「江戸時代に書かれた『料理物語』という本にはね、当時の人々が味わった、様々な料理のレシピが載っているんです。そこには、犬肉を使用した料理も書き記してあるんですよ」

「そんな、嘘でしょう」

「本当ですよ」血の気の引いた優花の顔を、女がじっと見つめた。「江戸時代の人々にとって、犬の肉は食用だったんです。つまり、我々の先祖は犬を食べていた。私たちを形成する遺伝子の中には、ちゃんと犬食の記憶が刻まれているのよ」

 くぐもったうめき声を上げ、掌で口を覆いながら、優花は店の奥へと走っていった。シンクの縁に手をつき、片手で腹を抑えて嘔吐している。

「あら、どうしたんでしょう」口元に指を当てながら、優花の方を一瞥して、女は言った。

「少し質問を重ねただけなのに……」

 汗がなめくじになり、背中を這いまわっている。僕はじっと丸テーブルを見つめながら、女の様子を窺っていた。どうしても、女の顔を直視することができない。

「それで、花瓶のことなんですけど……」視界の隅に写る女が、身体をこちらに向けているのがわかる。

「はい……」唾液の分泌が足りないらしく、口内が酷く乾いている。

「今から、材料の豚をこちらに持ってきてもよろしいでしょうか」顔を上げると、女が掛け時計をちらりと見ていた。「自宅にいる豚も、私の帰りを待っているでしょうし」

「そ、それは困ります」語気を強めて言った。「先ほども申し上げたとおり、当店では生きた動物をそのまま扱うことはできません」

「そうですか」女の顔に落胆の影が広がる。「では、また改めてお伺いしますね」

 呆気にとられる僕を置いて、女は席を立った。そして入店したときと同じように会釈をして、優雅な足取りで扉を開けて帰っていった。ドアベルの空虚な音が、いつまでも耳の奥で響いていた。

 

「店長、お疲れ様でした」店の扉を片手で開け放ち、こちらを振り返りながら優花が言った。「ああ、お疲れ。明日は定休日だから、ゆっくり休みなよ」

「はい、ありがとうございます」豆電球の光が散るような、寂しげな笑顔を見せた。「では、失礼します」

 カウンター越しに優花の背中を見送ると、僕は椅子に腰掛けた。時計の針は午後七時半を示していた。天井から吊り下がるペンダントライトが、黄色がかった光を部屋に投げかけている。

 あの女が店を出て行ってから、僕と優花は会話はほとんど交わさなかった。長い距離を泳いだ後のような疲労感が身体にこびり付き、重い空気が何層にもなって店の上に垂れこめていた。そして書類の整理や掃除をして、僕らは閉店の時間を迎えたのだった。

 僕は背中を丸めて俯いたまま、女の顔を思い浮かべていた。「またお伺いしますね」という女の言葉が頭の中で反響する。

 再び女が訪れたとき、僕はどう対応すればいいのだろう。まさかこの場で豚を解体して、皮を剥ぎ取り、毛や脂肪を取り除き、防腐剤を塗布して、花瓶の材料にするわけにはいかないだろう。毅然とした態度を取って断ればいいのは百も承知だが、なぜか彼女と話をしていると、いつの間にか掌の上で転がされてしまう。

 あれこれと考えを巡らせていると、ドアベルの音が鳴った。

「あ、すみません、本日はもう閉店で……」慌てて立ち上がると、縦長の段ボール箱を両手で抱えた女がいた。

「ごめんなさい、遅くなってしまって」女は軽く微笑みながら会釈をした。来店したときと同じ服を着用している。急ぎ足で来たのか、荒い呼吸をして、額に汗を滲ませていた。

「一体どうしたんですか」針を当てられたように胃が痛む。まさかこんなに早くやってくるとは、全く予期していなかった。

「花瓶の素材を持ってきたんです」抱えていた段ボール箱をカウンターに置いた。「なるべく新鮮な状態のものを届けたくて……」

 箱を目の前にして、僕の身体は張り切った弦のように硬直していた。

「花瓶の素材って……」

「ええ、豚の足です」充足感を顔一面に広げて、女が言った。

「そんな、まさか」

「生きた豚を直接持ってくるのはだめだと仰っていたので……これならいいですよね」

 女はそう言って、目で僕に箱を開けるよう促した。彼女の瞳には不思議な拘束力があった。こちらの抗う気を削ぐ、底知れぬ力が、彼女の双眸には宿っているように思えた。

 冬でも無いのに悪寒が走った。そのくせ首から上は熱を帯びて、びっしょりと汗をかいていた。

 箱からは微かに血の臭いがした。自分の指先を見ると、微かに震えている。何度か深呼吸をしてから、僕は意を決して段ボール箱を開けた。

 鉄臭い臭いが一段と濃くなった。口の中の唾液が粘着き、不快だった。箱の中を覗き込むと、詰め込まれた保冷剤が目に入った。淡い青色の保冷剤は丸を描くように並べられており、円の中心部分にはビニール袋に入った豚の足があった。足の断面からは骨や筋肉や神経の束が露出していた。だが、豚の足にしては太く、色も浅黒かった。不審に思って目を凝らすと、それはふくらはぎから下の辺りで断ち切られた人間の足だった。

「これは……」口をあんぐりと開けたまま、僕は言った。

「私のペットの豚の足ですよ」薄い唇を歪ませて、女は笑った。「少々手間取ってしまいました。切断自体はナタで一撃だったんです。もっと腕力が必要なのだと思っていたけど、案外簡単なんですね。ただ、飛び散った血の掃除と傷口の縫合が厄介で……」

「でも、これはどう見ても、人の足ではないですか……」箱と女の顔を見比べながら、絞り出すように声を発する。

「私の寵愛の下では、彼らは人間ではなく豚になるのです」女は慈悲深い笑みを浮かべていた。「当然、彼らは日常生活では人として暮らしています。ですが、私の家で飼われている間は、彼らはその呪縛から解き放たれます。野生に還り、豚として生活するのです」

 僕はその場で膝をつき、身体を折りたたんで吐瀉した。胃酸で溶けた昼食とコーヒーの混合物が床に広がる。腹部が激しく痙攣して、そのたびに反吐が出た。涙がどんどん溢れてきて、その雫が吐瀉物の上に落ちていった。

「あら大変、大丈夫ですか」女は平然とした口調で言い、スカートに手を入れた。「ハンカチをお貸ししましょうか」

 掌を立てて、女の提案を断った。酸っぱい唾を床に吐き捨てると、手の甲で口元を拭った。

「あなたは狂っている……」脳の奥が熱を帯びている。「まともじゃないですよ、人間を飼育するなんて」

「あの短い髪の女の子も、犬を飼っていると言っていたでしょう」女が箱の中の足をちらりと見た。「それが豚に代わっただけのことです。餌も与えますし、糞尿の処理もしますし、一緒に散歩もします」

「しかし、あなたのやっていることは犯罪だ。立派な逮捕監禁罪じゃないか」

「生き物を飼うことが犯罪なら、世界中のブリーダーは刑務所行きですよ」女は真正面から僕を見据えて、優しく語りかける。「それに、無理やり豚を飼っているわけではありません。彼らは自分たちを飼育してくれと、私に懇願してきたのです。自らの意志で私に飼われているのですから、監禁にはなり得ませんよね」

 羽虫が飛び立つような音がした。続いて窓ガラスをノックする水音。雨が降ってきたのだ。雨音は加速度的に強くなり、この部屋をすっぽりと包み込んだ。

「あら、雨が降るなんて天気予報では言っていなかったのに……」入り口の方をぼんやりと見ながら、女は自分の髪を撫で下ろした。そして急にこちらを振り返り、「この雨はしばらく止みそうにないですし……あなたの仕事ぶりを見学してもいいですか?」

「見学って、何を……」

「ですから、花瓶製作の過程を拝見したいのです」

「そ、それは無理です」焦りでいっぱいになった顔を凝固させたまま、僕は首を横に振った。

「作れないの?」部屋の空気が一瞬にして凍りついた。女の目が冷ややかな光を放つ。「腕には自信があるって話していたでしょう」

「でも、これは人間の足だから……」僕はもうほとんど泣きじゃくりたい気分だった。

「いいえ、豚の足です」女は俯いた僕の顔を、下から覗き込んだ。「もし作れなかったら、あなたを豚の餌にしますからね」

 雨脚はどんどん強くなり、絶え間なく窓を打つ雨音が、かえって部屋の静けさを際立たせていた。まるでこの部屋だけが世界から切り離されて浮かんでいるみたいだ。僕がこの箱庭から出られるのはいつになるのか。それは女と豚の足だけが知っているのだった。

 

<了>

ミライ

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「苦手な食べ物はない」と答えるより「食べ物全部好き」って言うほうが可愛いからそう言っているという話を聞いて、ハッとする思いだった。意味合いとしては同じなのに、後者のほうが耳障りが柔らかい気がして、良い言葉だなと感じた。全部の食べ物が好きなのは幸福なことだと思う。僕の場合は「ほとんどの食べ物が好き」と言える。「ほとんど」という副詞が付くのは、食べられないことはないけれど食指が動かないものがあるからで、それが酸っぱいものと過度に辛いものだ。例えば野菜の酢漬け、冷やし中華四川料理などで、僕の今後の人生で登場しなくても一向にかまわないような類のものだと断言できる。どうして好きではないのか問われると、前者が何となく胃液を連想するからで、後者は単純に痛いからである。

 人間の舌には味蕾という味を感じる器官があり、大人になるにつれて鈍感になっていく。何度も味わい、経験を重ねることで、子どもの頃は食べられなかった料理が美味だと感じられるようになる。苦くて不味いと思っていたコーヒーや魚の肝やビールが美味いと思えるのは(もちろん全員が美味しいと感じるわけではないけれど)、大人の舌の鈍感さと、積み重ねた経験によるものだ。こういった後天的に獲得していく味覚をアクワイアード・テイストと呼ぶらしい。

 子どもの頃の僕は酸味と辛味が平気だったのかと言えば、決してそんなことはなかった。冷やし中華の麺を渋い顔をしながら啜り、辛口のスナック菓子には極力手を付けない、そんな子どもだった気がする。親は僕の嗜好に口を出さない人だったから、僕もそれを治そうと奮起することはなく、僕の舌はそのまま大人になって酒の味を覚えたりしながら今に至る。だから二十七歳になった今でも、たまに会社の先輩と冷やし中華や辛いものを食べに行くと雨雲を飲み込んだような気持ちになる。幼少期と違うのは、そんな感情を顔に出さないようになったことぐらいだ。後天的に覚える味覚があるように、大人には後天的に学習する表情の作り方というのがある。そして会社帰りに酒を飲んでそういう感情や表情を綺麗に洗い流す。まるで禊のように。

祖父の内臓を見た日

 まさか祖父の内臓を、それも前立腺と膀胱を見ることになるとは思わなかった。

 日がどっぷりと沈んだ頃、俺を含む家族は皆、病院の一室で椅子に座っていた。祖父の手術の結果を聞くためだった。部屋は適度な温度で保たれていて、蛍光灯の明かりが部屋全体を白っぽく照らし、無機質な印象を与えていた。

 五分ほど経つと、手術を終えた医師が収納ボックスのようなものを両手に抱えて部屋に入ってきた。箱をテーブルに置き、こちらに一礼すると、「ご覧になりますか?」と箱を指差した。俺たちは静かに首肯した。

 医師が箱の上部を開けて、俺は中を覗きこんだ。摘出された祖父の前立腺と膀胱があった。子宮に似ているな、と俺は思った。保健体育の教科書に、子宮の構造を図解したイラストがあったが、そこに描かれていた子宮に似ていたのだ。

 病巣は縦に二十センチ、横に四十センチ近くあり、俺が想像していたよりもずっと大きかった。所々に付着している鶏皮のようなものはリンパ節だろうか。祖父の臓器はザクロのような赤色をしていて綺麗だった。

 むき出しの内臓を前にしても、嫌悪感や嘔吐感などは一切なかった。無機質な部屋の中で病院の照明に照らされる祖父の臓器は、美術館の展示品のようだった。祖父の身体を蝕んでいた悪魔の、そのフォルムの美しさに、俺は思わず心の中で感嘆の声を漏らした。

 病巣の確認が終わると、医師は箱の蓋を閉じて、口頭で手術の成功を俺たちに伝えた。心の中で膨張していた風船の空気が抜けたのか、皆が安堵の溜息をついた。そして手術の具体的な内容や今後の経過などを、医師は淡々と説明した。

 医師の説明が終わると、俺たちはエレベーターに乗り込んで祖父のいる集中治療室に向かった。集中治療室の扉を抜け、左手の手前側のベッドを覗くと、虚ろな目をした祖父が仰臥していた。人工呼吸器を付け、両腕から点滴の管を伸ばす祖父の姿は、横たわる操り人形に見えた。

 ベッドの背後にあるモニター心電図はピッピッという音を鳴らし、正常な値を表示していた。男性の看護師が俺たち家族に挨拶し、どうぞ声をかけてあげてください、と言って柔和な笑みを浮かべた。

「お父さん、わかる? よく頑張ったね」

 顔を近づけて祖母が声をかけた。祖父はうわ言のような言葉を二、三つ発すると、「俺は、生きてるのか?」と尋ねた。

「生きてるよ、良かったね」

「そうか……」閉じかけていた目をさらに細めながら、祖父が囁くように言った。

 家族が一人ひとり祖父に話しかけると、そのたびに彼は反応した。入れ歯が無いので祖父の言葉は不鮮明だが、きちんと返事をしている。大きな手術をした直後なのに、こちらの呼びかけに答える祖父のバイタリティに、俺は感心した。

 手術の際、血が大量に流れ出たため、握った祖父の手は冷たかった。何度か手を握り、しばらく祖父の顔を眺めてから、俺たちは病院を後にした。

 

「生死の境を彷徨うと、三途の川やお花畑を見るってよく言うだろう。あれは本当だったんだな」

 ベッドで横になったまま顔をこちらに向けて、祖父が言った。手術から三日ほどした、暖かな春の午後だった。

「川の向こうで誰かに呼ばれたの?」俺は祖父の目を見て言った。

「ああ、死んだばあちゃんの声がしたんだよ。『あんたはまだ早いからお帰り』って言ってたな。で、気がついたらベッドの上だった」

「追い返されたんだね」

「そう、追い返された。あと、お前たちの声もしたよ」病室にいる家族を見回しながら祖父が呟いた。「不思議な感覚だったなぁ、あれは……」

 良かった良かった、と言って俺は祖父の手を握った。祖父の筋っぽい手は温かく、この人は生きているんだな、と俺は実感した。

「罵倒バトラー」私的おすすめカード一覧

罵倒バトラーについて

 シャドウバースやハースストーン、遊戯王デュエルリンクスなど、2016年はカードゲーム系アプリが特に盛況を呈した年でした。

 そんなTCG戦国時代の中、wiki2ちゃんねるのスレがなく*1、あまり大っぴらな宣伝もなされてないものの、隠れファンをジワジワと増やしているアプリがありまして、その名を罵倒バトラーと言います。

iOS版とAndroid版のダウンロードは下記リンクから。
罵倒バトラー

罵倒バトラー

  • JOE,Inc
  • ゲーム
  • 無料

 

play.google.com

  

罵倒バトラーは、相手を罵倒して先に精神力(HP)を削りきったほうが勝ちという、シンプルなカードゲームです。
コミカルな絵柄と罵詈雑言に惑わされがちですが、なかなか戦略性が高く、この手のカードバトルが好きな人は病みつきになること間違いなし。
また、リセマラの必要がなく、無課金でも十分に遊べて、おまけにスタミナの概念がないのも魅力の一つです。

 

 そんな罵倒バトラーにはたくさんのカードがあるのですが、ここでは私が絶対にデッキに組み込んでいる、または早めに強化したほうが良いと思うカードを紹介していきます。

 あ、もちろん「必ずデッキに入れろよ!」というわけではなく、自分がデッキによく入れているカードをいくつかピックアップしたものになります。あくまで参考程度にお願いします!

 ちなみに筆者の腕前は、四天王の称号を3週連続でゲットするぐらいです。

 おすすめカード

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最初の手札に持っておきたい一枚。強化前は増加2なので率先して育てたい。

 

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2ダメと手札供給をコスト1で行える優秀なカード。ボン・クレースキンヘッド。

 

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 序盤に使われると素でイラッとする。一枚入れるか二枚入れるかはお好みで。

 

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手札の回転率を上げつつ攻撃できる、良カード。

 

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進化することで、コスト1でお手軽コンボが狙える。

 

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序盤に使うと、いい感じに相手の足止めができる。どう見てもスネオです。

 

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対女王様用。手軽なガヤ封じになって便利。

 

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 対アイドル用。相手がテンション4、5になった時に出しておくと掛かりやすい。

 

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 強化するとダメージが3になる。罠は相手のカード効果を上書きできるのが強い。

 

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始めたばかりの頃は必須。金枠にするとデッキに3枚入れられるが、1、2枚で十分。

 

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強化するとテンション増加のおまけが付く。最高のカード供給カード。

 

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序盤はもちろん、終盤で相手が大事そうに持っている一枚を捨て去ることでも活躍。

 

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強化するとコスト2でダメ2と心壁2を張れる、優れもの。 

 

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序盤にこいつを出すと、とても嫌がられます。

 

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一発逆転カード。相手がガヤを大量に出して勝利を確信した後に発動すると気持ちがいい。

 

 以上が、個人的におすすめしたいカードの一覧になります。

 当然ですが、カードゲームに正解はありません。罵倒バトラーはキャラによって特性がありますし、上記のカードを入れたからといって必ず勝てるわけではないです。自分も、未だにどうすれば安定して勝てるのか、試行錯誤しながらデッキを組み替えて遊んでいます。

 他に「このカードもおすすめだよ」という声があれば、教えていただけると幸いです。それでは、みなさま良い罵倒ライフを!

*1:2016年12月現在。

『スライドプリンセス』というアプリゲームにグッときた話

スライドプリンセスという脱出ゲームが感動を覚えるほど良かったのでダイレクトマーケティングしまーす。

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 ストーリー

可愛らしい姫とその執事である鳥は、ある日古城の裏庭で深い穴を見つける。好奇心を抑えられない姫は地下へと足を踏み入れ、そして一人と一羽の冒険が始まる。

ゲームシステム

ジャンルとしては脱出ゲームの範疇に入るが、プレイした体感としては謎解きアドベンチャーといった感じ。ゲーム画面は見下ろし視点で、倉庫番ゲームを思わせる。
各ステージごとに多種多様なギミックがあり、アイテムを組み合わせて謎を解いていく。クリアすると階層が深くなり、ステージの様相も変化していく。

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 評価や雑記

物語の世界観がとにかく良い。
謎解きの難易度が調度良い。自力で考えれば解けるほどの難しさで、さらに広告動画を見ればヒントが見られる親切仕様である。
やりこみ要素がある。各ステージには「Sカード」というストーリーを補強するカードが隠されており、物語を深めるものになっている。
姫と鳥の関係性が和む。ステージの途中で差し込まれるアニメーションでは、彼女らのコミカルな会話が見られる。

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 アプリゲームをプレイして、単純に楽しかったり達成感を味わうことは多々あるが、感動を覚えることはなかなか無い。ぜひ皆さんも遊んでみてください(無料だよ!)

脱出ゲーム スライドプリンセス

脱出ゲーム スライドプリンセス

  • norihiro hanazono
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 近所のラーメン屋が潰れ、テナント募集の紙が貼られて数ヶ月経つ。人間の新陳代謝は毎日行われて身体の細胞は年単位で入れ替わるが、おれの住む街にはもはや死んだ細胞しか残されてはいないのだろうか。髪や爪は角化した細胞の集合体らしい。髪染めやマニキュアはいわば死に化粧だとおれは思う。

 朝の駅前のロータリーではタクシーとバスがひしめき合い、目抜き通りにはサラリーマンと女子高生と主婦と外国人と老人が血管を巡る赤血球のように駆け足で通り過ぎる。街の心臓部は脈動し続けているが、四肢の末端である私の地区は既に壊死し始めているのかもしれない。街については、引っ越しをすれば身体の持ち主を変えることができるけれど、人の場合はそうもいかない。鉄筋コンクリートの寿命は100年を超えるらしいが、鉄筋コンクリの建物は実際には30年ほどで建て替えられてしまう。おれの場合はそもそも基礎が脆い欠陥住宅なのでコンクリートと一緒に朽ちてしまいたいのだけれど。

 最寄り駅から自宅までの帰り道にある飲み屋を全て制覇することが今年の目標だったのだが、ほぼ達成できそうな気配がしてきました。恋人とカウンターに座って焼いた銀杏とおろしたっぷりの秋刀魚を頬張りながらビールを胃に流し込むと、弛緩性の酔いがベールになって頭上から覆いかぶさってくる。吸水性ポリマーが水を吸うように、身体中の細胞にアルコールが染みていく感覚。細胞はやがて消えていくが、前頭葉五臓六腑にこの思いが刻まれていれば良い。

ガムの夢

 神田直樹は夢を見ていた。船に揺られて大海を旅する夢だった。航海は順調だったが、次第に雲行きが怪しくなり、やがて雨が降り始めた。雨は油紙を破くよ うな音を立てながら船に降り注いだ。前方を見ると、巨大な波の壁がこちらに迫っていた。神田は急いで逃げようとしたが、高波が船を飲み込んだ。波が覆い被 さってくる瞬間、彼は目を覚ました。
「パパ、起きて。ピンポンって鳴ってるよ」
 娘に身体を揺さぶられて、神田は慌てて上体を起こした。自室のベッドで寝ていた彼は、寝ぼけ眼であたりを見回した。ベッドの側では小首を傾げながら、娘がこちらを見つめていた。
 インターホンが鳴った。その電子的な音は、寝起きで混乱した彼の頭に鋭く響いた。
「お母さんは?」額の汗を拭いながら、神田は訊いた。
「ママは、お昼ご飯を買いに行ってくるってさ」
 壁に掛かった時計を見ると、十一時を少し過ぎたところだった。おそらく近所のスーパーまで買い物に行ったのだろうと、彼は推測した。
 再びインターホンの音が響いた。宅配便が来たのだろうか。神田は娘の髪を撫でてから玄関に向かった。途中、リビングのテーブルを見ると、空き瓶と作りかけの船の模型があり、自分がボトルシップを作る途中で寝てしまったことを思い出した。
 玄関のドアを少しだけ開けると、スーツを着たセールスマン風の男が立っていた。外からの日差しが逆光線になり、その顔は判然としないが、人の良さそうな微笑みを唇の端に浮かべていた。
「突然の訪問すみません、わたくし製菓会社の者です。ご近所に挨拶回りをしておりまして……」
 鼓膜に絡みついてくるような口調で男は言った。そして黒い革の鞄を両手に持ったまま、深々とお辞儀をした。
「あの、何かのセールスですか? それなら結構ですので……」
 新聞か、もしくは宗教の勧誘だと思った神田は苦々しい顔で言い放った。
「いえ、決してそのような類の者ではございません。当社の新商品を、ぜひ試していただきたいのです」
「新商品?」
 男のねちっこい言い方に辟易しながら、神田は言った。
「はい、それがこちらの『いきいきガム』というものでして……」
 男は鞄から緑色のボトルとA4サイズの用紙を取り出し、自然な動作で神田の手にそれを握らせた。
「あの、僕はまだ受け取るとは言っていないのですが……」
 ボトルを返そうとする神田を無視して、男は柔和な笑みを浮かべた。
「現在キャンペーン中でして、こちらのガムを無料で提供しております。お手元の用紙に味やパッケージの感想などを記入してから郵送で応募していただくと、 裏面にございますAからEまでの賞品の中からお一つ交換できます。もし何か不都合がございましたら、お手数ですが用紙の下部に記載されております、電話番 号までご連絡ください」
 男は切れ目なく話すと、腰を直角に曲げてお辞儀をしてから足早に帰っていった。神田の手にはアンケート用紙とガムのボトルが握られていた。彼はしばらく男の背中を目で追っていたが、肩を落としてため息をつき、玄関のドアを閉めた。

「パパ、誰が来たの?」
 リビングのソファでテレビを見ていた娘が振り返り、神田に向かって言った。
「知らない人だった」
 神田は手に持っていたものをソファの前のテーブルに置いた。ふうん、と声を漏らした娘は好奇心を顔一面に広げながら、ガムのボトルを手に取った。
「ねえ、これなに?」
「ああ、これか……」神田はガムのボトルを一瞥した。「さっきの人からもらったんだ」
「知らない人から物をもらったらいけないんだよ、ママが言ってた」
「パパは大人だからいいの」
 神田は大きな欠伸をして、目元に浮かんだ涙を指で拭った。娘は少し不満気な顔をしたが、すぐにガムに視線を戻した。
「パパ、これ食べてもいい?」
「……ちょっと見せて」
 娘からボトルを受け取ると、神田はパッケージに目を凝らした。社名も商品名も、まるで耳馴染みがなかった。まだテレビなどで放送されてない、新しい会社のお菓子なのだろうかと、神田は首をひねった。
 神田の娘は五歳で、来年から小学校に入学する。お菓子は時々与えていたが、虫歯やアレルギーが心配で、そんなに数多くはあげていなかった。また、喉に詰まる危険性を考慮して、ガムは全く食べさせていなかった。
「ダメだ」
 薪を割るようなきっぱりとした口ぶりで、神田は言った。ガムのパッケージを見る限り、虫歯になったりアレルギーを引き起こすような成分は入っていなかったが、万が一ということもある。そもそも、見知らぬセールスマンからもらったガムを子どもに与えるなんて、言語道断だ。
「えー、パパのケチ」
 娘はそう言葉を漏らすと、リビングのソファに戻ってしまった。娘の後頭部のあたりに視線を向けながら、神田はテーブルの上にボトルを置いた。
 妙な来訪者に出くわしてしまったものだ。神田は頭を掻きながらキッチンに向かい、冷蔵庫の中を見た。水出しした麦茶のポットを取り出し、コップに注いで飲んだ。冷たい飲み物が胃に入ってくる感覚があり、空腹感が急に襲ってきた。
 とりあえずボトルシップを片付けなきゃな。そう思ってリビングに向かうとき、こちらに背を向けて立っている娘の姿が神田の目に入った。ゴム長靴を履いて泥の中を闊歩するような、粘り気のある音が聞こえた。
「こら、食べるなって言っただろう……」
 呆れながら娘の方へ近寄ると、神田の予想通り娘はガムを咀嚼していた。
「でもこれ、美味しいよ」
「全く……間違って飲み込んだりしないようにな」
 娘の反応からして、毒が混入していたり、味が不味かったりはしないようだ。ガムの甘みを堪能している娘の笑顔に心を和ませながらも、神田は少し違和感を覚えた。どこからか異音が聞こえてくるのだ。
 最初は、テレビが何かしらのノイズを出しているのかと思った。しかし耳を澄ませると、その音はどうやら娘の口のあたりから発せられているらしかった。そ れはくちゃくちゃというガムの音とは明らかに異質なものだった。娘がガムを噛むたびに、洞窟の奥深くに潜む獣の鳴き声のような、不気味な声が聞こえるの だ。
 それに、娘の表情も気になった。嬉々としてガムを食べていた娘だったが、しだいに眉をひそめるようになり、今では困惑がその顔に広がっていた。
「パパ……」
 もごもごと口を動かしながら、娘が呟いた。
「どうした? 変だと思ったら吐き出しちゃいなさい、ほら」
 神田はティッシュペーパーを広げて、娘の口元に近づけた。
「違うの」唇をすぼめながら、娘が言った。「出そうと思ってもね、ガムが……勝手に口の中で動くの……」

 神田は娘の言葉を聞いて、取り繕ったような笑顔を浮かべた。だが、神田の眉間にはシワが寄っていて、その微笑みは油の切れかかった機械のようにぎこちなかった。娘の戸惑った表情からは、人に嘘をついて揶揄しようという意志は全く感じられなかった。
「……口を開けてごらん」
 娘は言われたとおりに口を開いた。まだ乳歯の残る歯が、従順な兵隊のように綺麗に並び、小さな舌が見えた。そして右下の奥歯のあたりにガムがあり、それは確かに動いていた。
 ガムは五百円玉硬貨ほどの大きさで、ドリアンの果肉のような白っぽい色をしていた。パスタの一種であるラビオリに似ていると神田は思った。ガムは所々に歯型が付いており、その跡がラビオリのギザギザした部分を想起させるのだ。
 ガムはのろのろと口の中を這いまわり、その動きはナメクジを想起させた。そう感じた瞬間、神田の心に怒りの炎が灯った。娘の口内にそんな汚らわしいものが存在することに、憤りを覚えたのだ。
 娘に上を向かせて、神田は右手の親指と人差指を娘の口に突っ込んだ。ガムを摘み出すと、それをリビングの照明の光にかざしてみた。
「なんだこれは……」
 ガムは唾液で濡れてぬらぬらと光っていた。神田の指の中でそれは身をよじり、かかとで踏み潰されたカエルのような声を出していた。
「変わったお菓子だね」娘は感心したように言った。「うねうね動いてるし、なんだか生き物みたい」
 神田はガムをティッシュに包み、ゴミ箱に捨てた。そして口の中を濯いでくるよう、娘に言った。ゴミ箱をちらりと見てから、娘は洗面台へ小走りで向かった。
 ガムを差し出してきたセールスマン風の男を、神田は憎んだ。ガムのボトルを手に取り、そこに書かれた会社の電話番号に目をやった。あのガムを噛んだことで娘が病気になったら、どうするつもりだろうか。
 クレームを入れてやろうと思い、神田は受話器を手に取った。そして製菓会社に電話をかけようとしたとき、娘が短い悲鳴を上げた。
「ねえ、パパ……」
 口の中を洗ってきた娘が、ゴミ箱の方を指差した。目をやると、丸めたティッシュ――さっきガムを包んだもの――がゴミ箱の側に転がっており、それが動い ていた。風に揺られるような自然な動作ではなく、見えない糸で引っ張られているみたいな、強い力で引きつけられていく進み方だった。
 ガムは神田には見向きもせず、娘の方へ真っ直ぐに向かっていた。神田は肌が粟立つ思いだった。仕組みは分からないが、どうやらこのガムは、噛んだ人に付いていく習性があるらしい。
 受話器を置いた神田は、ティッシュの衣をまとったガムを指で拾い上げた。こいつの動きを止めるにはどうすればいいのだろうか。ガムは瀕死の鶏のような声を出して暴れていた。娘は好奇心と戸惑いの間で立ち往生したような表情で、それを見つめていた。
 何か重たいもので潰して、動きを止めてしまおう。そう考えた神田は、部屋の中を歩きまわり、重量感のあるものを探した。そしてリビングのソファに目をつ けた。急いで歩み寄ると、ソファの端を片手でぐっと持ち上げた。ソファの足の形に合わせて、床には薄っすらとホコリが付着していた。ホコリの中心にガムを 置き、それが動き出す前にソファを降ろした。ぶちぶちと繊維が千切れるような音がして、ガムは耳障りな悲鳴を上げた。
 神田はソファの端に両手を置いて、何度か体重をかけた。力を加えるたびに声が小さくなり、三分ほど経つと静かになった。ひとまずこれで動かなくなるだろう。ほっと一息をついた神田だったが、ソファが不自然な音を立て始めて、緊張が電流のように全身を走った。
 ガムは床とソファの足の隙間から、じりじりと這い出ていた。音階の狂った声を上げながら、ガムはほふく前進をするように抜けだすと、細かく身体を震わせた。神田が呆然としていると、ガムはティッシュの切れ端や埃をその身にくっつけたまま、娘の方に近づいていった。
 神田は再びティッシュを手に取り、ガムを捕まえた。彼は手元をじっと見つめながら、このガムは生きていると確信した。どういう訳か知らないが、このガムは意志を持って動いている。そしておそらく、何とかして殺さない限り、ずっと娘の方へ向かっていく……。
 神田はキッチンへ行き、丸テーブルの上のミキサーに目をやった。妻が毎朝野菜や果物を入れて、手作りのジュースを作るのに使うミキサーだ。
 震える手で電源プラグをコンセントに差し込み、ミキサーの中にガムを放り込んだ。そして蓋を押さえながらスイッチを入れた。チタン製の刃が回転して、威 嚇する猿のような叫び声がミキサーの中で響き渡り、ガムは散り散りになった。娘はリビングの壁を背にして、神田を遠巻きに見守っていた。
 二、三分の間、神田はミキサーの蓋を押さえたまま、刃の回転するミキサーを見つめていた。ガラス製のミキサーの中で、ガムは千切れてバラバラになり、無残な姿を晒していた。
 ここまですれば大丈夫だろうと思い、神田はスイッチを切った。飛び散ったガムの一部はミキサーの壁に張り付き、また別の部分は刃にべったりとこびり付い ていた。しばらくすると、細切れになったガム同士がくっつき始めた。隣り合った水滴が一つになるように、ガムは互いに引かれ合い、その塊は大きくなって いった。
 神田の口が開かれて、喉の奥で潰したようなうめき声が出た。それぞれが独立した生き物であるかのようにガムは動き、やがて元のガムに戻ると、再び鳴き始めた。
 唇を舌先で潤し、神田はキッチンの引き出しからフォークを取り出した。ミキサーの蓋を開けると、ガムがミキサーの壁をよじ登っていた。身体をくねらせながら進むガム目掛けて、神田はフォークを突き差した。ぶぎゅうという甲高い声を発して、ガムはその身を波立たせた。
 神田はガスコンロのスイッチを入れて、強火に調整した。そして躊躇うこと無く、フォークの先を火に当ててガムを炙った。ガムは一際高い声を上げながら身をよじった。
 焦げたメロンのような臭いを発しながら、ガムは身体から白煙を上げていた。その様子を眺めていると、神田の心に嗜虐的な喜びが沸き上がってきた。子どもの頃に味わった、公園のアリを一匹ずつ指で潰すときに感じる、あの純粋無垢な喜びだ。
「パパ、大丈夫?」
 背後から娘の声を浴びて、神田は我に返った。フォークを握る手が汗ばみ、微かに震えていた。自分がいつの間にか残忍な顔をしていることに気づき、神田は自身の豹変ぶりを恐ろしく感じた。
「ああ、大丈夫だよ」平静を装った声色で神田は言った。
「なにか手伝うことある?」
「いや、パパがやるよ」
 彼はフォークの先を火に突っ込んだまま、ありがとうねと娘に言った。そして口の中に違和感がないか尋ねた。
「何とも無いよ。でも、もうガムはいらない……」
 そう言い残して、娘はリビングに戻ってしまった。神田は炙っていたガムに視線を戻した。フォークの先端では変色したガムが、もう何の声も発しないまま、ぶすぶすと煙を上げていた。
 神田はコンロの火を止めて、深いため息をついた。ガムを殺した愉悦感や、己の行動の滑稽さを自嘲する気持ちなど、様々な感情が心の中で渦巻いていた。
 彼は流し台にガムを差したフォークを置き、洗面台に向かった。冷水で顔を洗うと、煮え立った湯のように昂っていた気持ちが落ち着いてきた。神田は鏡に映 る自分の顔を見た。両目が落ちくぼみ、頬は血の気が失せ、まるでコールタールを飲み込んでしまったみたいだ。ガムと格闘したことで、疲労の毒が身体に回 り、神田の体力を奪っているらしかった。
 キッチンに戻ってきた神田の耳が、気になる音を捉えた。金属同士がぶつかり合うようなその音は、流し台の方から聞こえた。
 神田の心臓が早鐘を打った。流し台を覗きこんでみると、フォークが小刻みに動いていた。しかし実際に動いていたのは、フォークではなくガムだった。初め は細かく震えていたガムだったが、その動きはだんだん激しさを増し、子どもが駄々をこねて左右に身体を揺するような大きなものになった。そしてフォークの 針から抜けだして、身体に穴を空けたまま、ステンレスの壁をよじ登ってきた。
 神田の視界がぐらりと揺れた。粗悪な酒を飲み過ぎて、酩酊しているような気分だった。ガムに対する絶望感や嫌悪感がごちゃ混ぜになり、彼の全身をどっぷ りと浸した。悪い夢ならば早く覚めてくれと切に願った。だが、毛虫のように流し台を這って行くガムの、呪詛にも似たうめき声は、ここが現実であることを はっきりと告げていた。
 神田はちらりと娘に視線を向けた。彼女は父親と流し台を交互に見ているが、その顔には不安の雲がかかっていた。神田はかぶりを振って、自身を奮い立たせた。娘に危害が加わるような事態は、絶対に忌避しなければならなかった。
 ガムの動きを止めるにはどうすればいいだろうか。頬を伝い落ちる汗を手の甲で拭い、神田は考えを巡らせた。そしてふいにボトルシップの瓶を思い出した。
 神田はガムを直に掴むと、羽をもがれたまま飛び立とうとする鳥のような足取りでリビングに向かった。指先にあるガムは耳たぶのような柔らさかだった。親指と人差し指で潰すと、絡まった糸が引きちぎれるような感触があり、神田の背中に嫌悪感が走った。
 テーブルの上の瓶にガムを放り入れると、神田は渾身の力を込めながら、コルクの栓で蓋をした。ガラス製のボトルの中で、ガムは地底から沸いてくるような くぐもった声を上げていた。しばらくの間ガムは蠢いていたが、その動きはだんだん緩慢になり、ぶるりと大きく痙攣したかと思うと、完全に動きを止めた。
「やった……」
 呟くように言うと、神田は大きく胸を撫で下ろした。容器を軽く振ってみたが、ガムは瓶の底にへばり付いたまま微動だにしなかった。瓶の中の酸素が無くなって、窒息したのだろうと、彼は推測した。
 安堵感に心を満たされていた神田だったが、残りのガムのことを思い出し、慌てて大きめの空の瓶を用意した。そしてテーブルにあったガムのボトルの中身を、全て瓶の中に流し入れて、固く栓をした。
 ガムの詰まったボトルをテーブルに置いた瞬間、瓶がかたかたと震え始めた。大きな地震が来る前の初期微動に似た震えだった。目を凝らしてみると、瓶の中 のガム一つ一つが、それぞれ別々の動きをしていた。身体を大きくよじるものや、寒さで震える手先のように痙攣するものもいた。ガムの動きは次第に大きくな り、まるで互いに共鳴するかのように、全てのガムが悲鳴を上げながら震えていた。テーブルが音を立てて揺れて、船の模型やピンセットやテレビのリモコンが 床に落ちた。ガムの鳴き声は絡まり合いながら瓶の中で反響し、危険を告げるサイレンのような巨大な音の束になった。音量はさほど大きくないが、鼓膜を直接 引っ掻くような鋭さがあり、神田は頬をひきつらせた。
 二分ほど経つと、震えや叫び声は小さくなって、ガムは動かなくなった。圧倒的な静寂が、リビングを重々しく満たしていた。

 神田はガムの入ったボトルを二つ、キッチンの丸テーブルに置いた。そしてゴミ袋を手に取り、しばらく逡巡したあと、袋を元に戻した。本当は今すぐにでも捨ててしまいたかったが、何かの証拠になるかもしれないと思い直し、取っておくことにしたのだ。
「もう大丈夫なの?」眉を下げて、不安感を語尾に滲ませながら娘が訊いた。
「ああ、もう動かなくなったし、平気だよ」
 神田はガムの入った瓶に視線を送った。娘はボトルをしげしげと眺め、野犬の群れから逃げ切ったうさぎのような表情を浮かべた。
 空のガムのボトルを手にすると、神田はガムを製造した会社に電話をした。しかし電話は繋繋がらず、この電話番号は使われていないという機械的なアナウンスが繰り返されるだけだった。神田は心の中で舌打ちをして、受話器を置いた。
 警察に連絡をしようかと思ったが、神田は思いとどまった。娘の噛んでいたガムが突然動き出して襲ってきたなんて話は、信じてもらえるわけがないだろう。質の悪いイタズラ
か、狂人の戯言だと一蹴されてしまうのが関の山だ。
 神田は膝を折ってしゃがみ、娘の目を見た。
「このガムのこと、誰にも言っちゃダメだぞ」優しく諭すような口調で、神田が言った。
「どうして?」小首を傾げながら娘が尋ねた。
「ガムが動いたなんて言ったら、みんなびっくりしちゃうだろ? だからこれは、パパと二人だけの秘密だ」
「分かった。じゃあ、指切りね」
 互いの小指を引っ掛けて、二人は指切りをした。そして、知らない人からもらった物を食べたらダメだよ、と神田は言った。パパもだよ、と間髪入れずに娘が言って、神田は思わず笑い声を漏らした。
 玄関のドアが開く音がした。スーパーの袋を片手に持った妻が帰宅して、ただいまと言った。
「お帰り」神田が両膝に手を置いて立ち上がって言った。
「あら、起きてたの。いつもお昼まで寝てるのに」飄々とした口調で妻が言った。「……どうしたの、にこにこして」
「ちょっと遊んでたんだよ」神田は娘に意味ありげな目配せをした。
「ねー」娘は白い歯を見せて、笑顔で頷いた。
 ふうん、と二人を交互に見つつ、妻はキッチンへ向かい、丸テーブルに荷物を置いた。
「とりあえず昼食にするから、片付けておいてね」
 そう言ってリビングのテーブルを指差した。神田は首の後ろを掻くと、散らかった船の模型の部品やピンセットや瓶を両手に抱えて、自室に戻った。娘はソファに座り、脚をぶらぶらと揺らしながらテレビを見始めた。
 神田の妻は洗面台で手を洗うと、昼食の支度に取り掛かろうとした。材料の入ったビニール袋の中身を取り出そうとしたとき、ふとテーブルに置かれた瓶を見つけた。
「何これ?」
 大量のガムが入ったボトルを掴むと、妻はコルク栓に手を掛けた。声を聞いた娘が振り向き、妻の手元にあるガムを見て、静止させようと慌てて口を開いた。しかし、娘の口が否定の形を作った直後、コルクの栓がぽんと小気味良い音を立てて開いた。
 部屋からリビングに戻ってきた神田は、娘に目をやって訝しんだ。酸素欠乏症に掛かった金魚のように口を開けて、顔の筋肉をこわばらせていた。娘の視線の先を辿ると、妻が蓋の開いた瓶を持っているのに気づいた。
 神田は悲鳴に近い声を上げて、妻の元に駆け寄った。妻の手からボトルを奪おうと腕を伸ばした瞬間、驚いた妻が手から瓶を滑り落とした。瓶は粉々に砕けて、その破片と共にガムがフローリングの床に散らばった。そしてガムの一つがかたりと音を立てた瞬間、全てのガムが一斉に神田の方を向いた。本当の悪夢はこれから始まるのかもしれないと、神田は思った。